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アフリカの風になって 2
モロッコ
ララッシュという街は、モロッコの田舎にしては割と大きく、レストランもあり、そこで夕食を取ることになった。このあたりは海にも近く、何とイカリングフライのメニューがあり、焼き魚とともに注文する。彼らは肉を注文した。運ばれてきた料理を見て彼らはけげんそうな顔をした。
「イカなんて見たこともない」
と言う。
「 肉ばかり食ってると高血圧になって早死にするゾ。イカはコレステロールが無いんだぜ 」
と言ってムリヤリ食わせる。一人は多少気に入ったようだが、もう一人の方は一切れ食っただけ。まあイカはともかく、面白いことに彼らは魚がダメ。魚の肉は食えるらしいのだが、ここにある丸焼きがダメらしいのだ。
理由は何と頭がついているから。それが恐いという。
「 何言ってんだ。ブタぶっ殺して腸から血まで食うくせに 」
と言うと、
「 食うとき頭は無いから 」
と言う。
面白いものだ。国が替わると価値観も考えも好みも変わってしまうのだ。それにしてもこんな所でイカリングが食えるとは思わなかった。
食事を終え出発しようとしていたら、ここの店のオヤジが、
「ここから数キロ先にキャンプ場がある」
と教えてくれたので行ってみることにした。
そこに着くと、ドイツナンバーのキャンピングカーが3台止まっていた。テントでも張ろうとレセプションのオヤジに料金を聞くと、キャンプ代(テント×2)が90ディルハム(1ディルハム約0.65円、以下DH)、ホテルの3人部屋が何と100DHということで、もちろん部屋へ。へんな料金体系だ。ともあれ、9時過ぎにやっと荷物をほどくことができた。
アフリカに入ったとはいえここはまだ北アフリカ、1月の朝は寒い。彼らは寝袋で寝ていたが、どうやらそれが正解だったようだ。備え付けの毛布一枚で寝てしまったら明け方、何度も寒さで目を覚ましてしまった。
翌朝、起きたら彼らはすでに準備を始めていた。あわてて起き、準備をする。彼らは完璧主義のドイツ人にしては珍しく、ズボンはジーンズ、ジャケットはただのジャンパーという普通のカッコウで、防寒ウエアもたいした物は持っていない。冬のヨーロッパをこのスタイルで抜けて来たというから驚きだ 。最新の防寒着を着て、『寒い寒い』といいながらヨーロパを走ってきた自分を思うと、つくづく北国生まれにはかなわない、と思ってしまう。
さてそのベスパ。ファイナルギアを換え、エンジンチューンをしてあるということなのだが、これがやたら速い。90〜100キロで先導する我愛車に平気でついてくる。ヨーロッパの高速道路では110キロのアベレージで走ってきたというから、やはりタダモノではない。なんとヨーロッパでは我がXLRより速いのだ。

ベスパとカフェで朝食
9時過ぎ出発。このあたりは道幅こそ狭いが舗装は良く、のどかな畑が続くなだらかな山道で快適なツーリングが楽しめる。途中、ガソリンスタンドにあったカフェで朝食を取ることにした 。モロッコに入国して驚いてはいたのだがこの国の物価はメチャクチャ安い。ここの朝食セット、フランス仕込みのうまいクロワッサンと玉子、カフェオレをたらふく食って何と65円だったのだ。改めて物価の安さを思い知りみんなでニンマリ。正にモロッコいいとこ、アフリカのスタートとしては縁起がいい。昼過ぎ、首都ラバト着。私はここでビザを取る必要があるため、彼らと最後の昼食をとって別れることになった。彼らはこれからアトラス山脈を越え、カスバ街道を走りに行くという。また会おう、グッドラック!

 小さな店が並び、アメ横のようなラバトのメディナ(上)とハサン塔を中心とするモスク。
翌日ビザを取り出発する予定だったが、なんと運悪くイスラムの祭日でアルジェリア大使館は休み。それに土・日と重なるわ、当日発行のはずが翌日発行になるわで五泊もするハメになった。そのアルジェリア大使館で、スペイン・バルセロナで遇った日本人スクーター青年に再会した。
この時、彼のバイクはカサブランカのユースホステルにあった。バルセロナで遇った時も彼はセビリアにバイクを預けバスで来ていたので未だ彼のスクーターを見てはないのだが、フランスで買った50ccヤマハベルーガで、40キロしか出ない(フランスの法律でギヤ比がそうなっているらしい)のに、ヨーロッパを2万キロ走破してここまで来たというからたいしたもんだ。この日は彼ともうひとりの日本人バックパッカーと3人で1日中メディナ(市場のこと)をうろつき、メシを食った。
翌日、3人一緒にめでたくアルジェリアのビザをもらい、別れのコーヒーを飲みながらマラケシュでの再会を約束して彼らに見送られ、出発した。

世界一(たぶん)桁数の多いナンバープレートと路上水道屋、トライク?。
湾岸戦争
その日の夕方、マラケシュに着いた。モロッコは何処でもそうだが、観光客に対する客引きがすごい。いや、しつこい。このしつこさはインド人もかなわないのではないか、と思える程だ。市内に入る数キロも手前からモペット、自転車が何台もバイクの周りを取り囲み、
「宿は決まっているか、いい宿を紹介する」
「オレがガイドをしてやろう」
「いいみやげ物屋がある。じゅうたんいらないか」
などとうるさく声をかけてくる。いくら、『いらなねーからどけーっ!』
と怒鳴ってもずーっとついて来るのだ。
しかも、走りながら囲まれるから危なくてしょうがない。どうせこんなヤツらの話に乗ってもボラれるのは目に見えているので無視して宿を見つけ、チェックインした。そのしつこいヤツらを無視できれば、メディナへ行っても広場の大道芸をみても面白いものばかりであきない。その上食い物も安くて旨い。とりわけラバトから日課となっていた、細かく碾いたコーヒー豆を煮出したアラブ風コーヒーと、ミントをいっぱいつめたコップに紅茶を入れたミントティー、日本のそれと同じ味のイワシフライと、モロッコ名物クスクスも旨いのがここにあり、言うこと無しだ。

マラケシュ、メディナの定食と屋台のゆで卵屋とエスカルゴ屋、美味い!
マラケシュに着いて2日目にラバトで別れた日本人バックパッカーと再会した。再会を喜んでくれている、と思ったら急に暗い顔になった。どうしたんだろう、と思ったら彼は驚くべき情報を持っていた。
「イラクで戦争が始まったの、知ってますか?」
と言い出したのだ。
よくは分からないが大変なことになった、という直感が頭の中に広がった。その夜は、彼の持っていた短波ラジオから流れる、ノイズ混じりの日本語放送を必死で聴いた。だがそれ以上の情報は無く、ますます不安が募る。まだここらあたりには情報が入っていないらしく、地元の人で戦争のことを知っている人はほとんどいないが、BBCとかの英語短波放送では、観光客は早くアラブ圏から出るように、と呼びかけている。翌日は出発の予定だったが、情報収集のため1日延ばすことにした。
翌日、日本大使館に電話をすると、
「マグレブ3国( モロッコ、アルジェリア、チュニジア)では問題ないでしょう」
ということでひとまず安心 。街はいつもと変わらないが状況次第では彼らがどう変わるか、分からない。
 マラケシュの広場とそこにいた水売りのオヤジ、蛇遣いとソーセージ屋の少年。
 代書屋さんとギョエーッ、の屋台歯医者。もとい、歯抜き屋(たぶん)
この日の午後、広場をうろついているスクーター青年とも再会した。バイクで来た、と言うのでさっそく彼のバイクを見に行くことにした。ちょっとそこらをひと回り走ってみたらこれがまたスゴイ。よくここまで来ることができたものだ、と思うほどのひどいシロモノだった。クラッチは滑ってるわマフラーは折れてるわ、フォークが曲がって真っ直ぐ走らないわ、スタンドは折れてるわでもうボロボロ。
彼は、ろくな工具を持ってなかったので私の工具で取り外し、溶接屋を探し出してスタンドとマフラーを修理した。彼はこのボロスクーターでカスバ街道を走り、あわよくば、ここから二千キロ以上離れたタマンラセットまで行きたいという。

マラケシュのモスクの塔の昼と夜。半月の月と星が出て、イスラムシンボルと同じになった。
この夜、再び日本語の短波放送を聴く。何とイスラエルを攻撃したらしい。大変なことになった、と思うと同時に、旅を終えなければならない自分の姿が頭をよぎった。以前、イスラエルを旅した時感じたイスラエル人のアラブぎらい、建国以来ずっと準戦時中下という緊張感、イスラム教徒を人間と思わない感覚、いろんな本で読んだ中東戦争の時の、イスラエルという国が採った行動を考えると反撃しない訳がない、と思ったからだ。
翌日、もう1日留まることにした 。情報もないまま一人でアラブ世界に入っていくのに少し不安があったのだ 。1日2度の日本語放送と英語の放送を聴くのが日課になった。だが、頼みの綱の日本語放送のニュースはほんの少しで、この場に及んでも下らない話とか“のど自慢” などというノーテンキなことをやっている。アフリカくんだりまで来てこんなもん聴きたくもないし、近くで戦争をやっているんだ、少しは役に立つ情報をくれ!そのための日本語放送だろう、それとも、『この放送はアラブ圏にいる日本人のためだけにあるもんじゃありません』 とでも言うのか。 周りの人に聞くと、戦争のことは知っているものの関心が無い人がほとんどで、とりあえず戦争がどうなってもこの国では安心のようだ。よしっ、行けるところまで行ってみよう。私の予想が外れるのを祈るのみだ。三人とも次の日出発する腹を決め、この夜最後の晩餐をすることにした。最後だから、ということできばって高いホテルのレストランでクスクスを食いながら(豪華と言っても150円の屋台から850円のセルフサービスのレストランに替わっただけだが・・・ )旅の無事と湾岸戦争が早く終わることを祈り、アラブの国の砂漠の街、タマンラセットでの再会を約束して夜10時過ぎ、それぞれのホテルへ帰って行った。

フェス、ブー・ジュルード門と城内のモスク、皮染め工場(ゲロ臭)、ベルベル人のオヤジ。
翌日、480キロ走り、世界最大の迷路都市古都フェズに着いた。2日間この街で過ごした。街は高い塀に囲まれ、狭い路地が複雑に絡まる城塞都市で活気があり、人々の表情も明るく、湾岸戦争の“ わ”の字も無く全く平穏に見える。しかし、この街では数年前暴動が起こり、この街を見下ろす高級ホテルが占領され、軍の空挺部隊が降下してきて鎮圧した、という事件が起こったのだという。確かに丘の上には黒こげになったホテルが残っていてイザとなったらそういう過激な行動をする人達なのか、と思い始めたら怖くなった。

その黒こげホテル前からフェズを見下ろす。北アフリカ最大のカラウィーンモスクが見える。
3日後、アルジェリア国境に向け出発しようという朝のこと、例のベスパに乗ったドイツ人の二人組に再会した。くしくも、モロッコ最初と最後の日に彼らと会うことになったが、彼らはその間、二千数百キロを走り、その内の数百キロはダートだったという。ベスパはカウルがヘコんだり、ガムテープが張ってあったりでほんの数日見ないうちにかなりクタビレてしまっていた。やはり彼らはタダモノではなかったようだ。再会のお祝いと、別れの朝食を一緒に食べ、彼らはそのまま母国のあるヨーロッパへと旅立って行った。 この日、予定通り進めず、予定を変更してアルジェリアとの国境にあるウジタという街に泊まることになった。
翌朝、ホテルの前で闇両替屋のオヤジに声を掛けられ、レートのわからないまま10ドルだけ換え(=250ディナール、これは適正レートだったようだ )アルジェリア国境へと向かった。
国境越え
モロッコとアルジェリアの国境は、ウジタからなだらかに続く丘の中をくねりながら続く道を10数キロ走った畑の中にあった。イミグレーションオフィスは畑の中の一軒家。そんなのどかな雰囲気とは裏腹にアルジェリアの入国はかなり厳しい、という噂をヨーロッパ人ツーリストから聞いていたのでまずは国境前のカフェで一服、気合いを入れてから中に入っていくことにした。
ところが、モロッコ出国は20分程で完了し、アルジェリア側でも一時間半待たされはしたもののなんとノーチェックで通過できたのだ。まあ、強制両替はあったがツーリストから聞いていたレートより上がっていたのでそんなに痛くはない。拍子抜けする程簡単だった。しかし、その後に鬼門が待ち構えていたのだ。

アトラス山脈には雪が残っていた
2台のBMWの白バイ( 色は緑だったが )に乗ったポリスに止められた。何とヤツらはAKー47カラシニコフを首からぶら下げている。このポリスにパスポートチェックと荷物検査までやられてしまうことになった。『つい20分前税関で調べられたばかりだ!』
と言ったらグイッと睨まれた。目が危ない。逆らう事はおろか冗談も通じそうに無い雰囲気だ。こうなったら気が済むまでやらせるしか無い。
やっと無事解放され、そのまま一路次の目的地オランという街へと向かう。たっぷり1時間ムダになっていた。
道はモロッコよりも随分と良く、建物も立派。羊・ヤギ飼いの人もほとんど見かけず、かなり裕福な国のようには見える。 しかし道路標識がほとんど無いのには閉口した。あってもアラビア語がほとんどで数字しか理解できず、行き先はワケが分からない。それでもようやくオランの街に辿り着いたが、やはり標識が無いし市内地図も無いので何処が街の中心なのかも分からない。街の造りはフランス風で立派なのだがくすんでいて暗い雰囲気。観光案内所を見つけて行ってみたがアイソの悪いオバサンが一人いるだけで地図もパンフレットも無く、ホテルも紹介してくれなかった。しかたなく、人に聞きながらやっとのことでホテルを見つけ、メシでも食おうと街へ出てみた。

フランス風のオラン市内
街、といっても閑散としていて店も少なく、レストランも少ない。その数少ないレストランも高くてまずい。街を歩き回っても建物がフランス風というだけで何も見る物も無く、何となく雰囲気も良くないし、それに第一、外国人が全く居ないのが不安だし2泊の予定を切り上げて翌日出発することにした。
2日後、モロッコから千キロ走って、古都コンスタンチーヌという街に着いた。この街は岩山を千数百メートル上がった所にへばり付くように広がった街で、街を深い渓谷が切り裂き、その渓谷に架けられた一本の橋とともに、独特の景観を見せてくれる街だ。
雨の中、街を走り回って観光をする。街全体が景色の中に入っていて街の風景としては世界でも第一級と思うのだが、いかんせんその景色の中心となる崖は何とゴミ捨て場と化していたのだ。悲しくなった。
どうやらこの国は観光には全く力を入れていないようだし、人々の美意識もかなり我々と違うようだ。そしてそのせいか戦争のせいかこの街でもアルジェリア入国以来、やっぱり外国人の姿を全く見かけなかった。モロッコ以来情報も全く入って来ず、気のせいか街を歩いていると冷たい視線を感じてしまう。心細い。おまけにホテルの向かいにあるエアーフランスのオフィスは焼き討ちに遭ったらしく黒コゲになっているし、街ではサダム・フセインのブロマイドを売っていたり、私に向かって、
「サダム・フセイン、グーッド!」
と言ってくるオヤジがいたりで何となくアブナイ雰囲気。こんな所は早く抜けた方がいい。チュニジアへ行けば情報も入るだろう。チュニジアから砂漠へ下りてしまえばアラブ圏ともオサラバだ。

コンスタンチーヌ市内の大渓谷、見事な眺めだ
コンスタンチーヌに入って3日目、大雨で1日足止めをくったものの無事270キロ離れたチュニジア国境へと向かうことになった。
国境はなだらかな山の中にあった。周りは畑ばかりで人家はほとんど無い。めったに人が通らないらしく、何度もオフィスの中に声をかけてようやく暇そうな係官が出て来てメンドくさそうに手続きをやってくれた。意外とすんなりスタンプをくれ、ほとんどノーチェックでゲートを越えた。この間約30分。 ここを越えれば観光立国というウワサのチュニジア。夕方にはチュニスに着けるだろう。
いい気分でアルジェリアのゲートを抜け、ユーカリの森の中へと走り出す。ダートのワインディングロードを数キロ下るとチュニジアのイミグレーションが見えてきた。

サダム・フセインブロマイドはいらんかえ〜、と街の風景。
ところが、ここも鬼門であった。すんなりとすむと思ったらこれが大間違い。そこには、徹底的な外国人いびりが待っていたのだ。
「 ハッシッシノチェックダ 」
といいながら、外人がめずらしいのかヒマなのか3人も出てきて、同じものをそれぞれ一回ずつ見やがるのだ。
「 それはコノヤローが、もう見たじゃねーか!」
「 イヤ、オレハ見テナイ。・・・コレハドウ使ウンダ?」
「 使い方がハッシッシとカンケーあんのかよ、 えーっ!」
頭にどんどん血がのぼり始め、もう爆発寸前、『 何が観光立国だ!』 と怒りで思わず目の前のヤツをぶん殴りそうになる。ほとんど “ 趣味=外国人いびり ” というヤツらだった。こいつらとのくだらないやり取りに2時間もつき合わされ、5時半を過ぎた頃にようやく解放された。
思えばここでプッツン切れて、アルジェリアに帰って行った方が良かったのだ。その理由が翌日判明することになる。
チュニス
夜9時、首都チュニスに到着。ヨーロッパ以来の綺麗で大きな街だ。造りも妙にヨーロッパ風で、道路の中央分離帯に大きな木が植わっていて公園のようになっている。その道の両脇には店が並んでいて、そこがこの街のメインストリートだった。このあたりにはホテルも多く、ほどなく千円ほどの安宿に入ることができた。走った距離は大したことはなかったがとにかく疲れた。
シャワーをあびて外へ出る。小綺麗な食堂が多く、旨い。特にパン屋はフランスのそれと同じでクロワッサンと、ついにここ以来南アフリカまであり付くことが出来なかったピザパンが絶品だった。

チュニス市内とメディナ
翌朝はアルジェリア領事館に再入国の手続きに行く。モロッコの大使館でも国境でも、『簡単に出来る』と言われていたので、全く問題にしておらず、当然のように窓口にパスポートを出した。
ところが、その時、係官の口から出た言葉に、思わず頭から血の気が引いた。『 ビザは出さない!』 と言うのだ 。
「 どうしてだ!」
と言っても
「 とにかくダメだ 」
の一点張り。押し問答が10分程続き、ついに相手にしてくれなくなった。
しかたなく退散し、日本大使館に行って聞いてみることにした。そこでの話ではアルジェリア政府が『外国人の安全は保証しない、ビザは出さない』と通達してきた、と言うのだ。おまけに日本大使館からはそれに関して何も言えないのだという。一縷の望みを持って行ったのに、更にトドメを刺されてしまった。
目の前が真っ暗になり、夢がガラガラと音を立てて崩れていく・・・。暫くは何も考えられなくなってしまった。アフリカの夢もここで消え去ってしまうのか・・・? コンスタンチーヌから真っ直ぐ下っとけば良かった・・・。何分窓口でボーゼンとしていたのだろう。でもボーッとしていても先へは進めない、と思い直し、まずはもう一度アルジェリア大使館に行って交渉することにした。
係官が変わると対応も違ってくることがある、というのを今までの長い旅の間に経験的に分かっていて、それに賭けてみようと思ったのだ。窓口には案の定先程と違う係官が居て必死で頼み込んだ。すると、
「 分かった。相談してくる」
と言って奥へ消えて行った。少しの望みはある。もう後は祈るのみだ。
が、さんざん待たせて気を持たしてはくれたものの、結局ダメであった 。気が抜けてドッと疲れが出た。もう次の手を考えるしかない。ここから、アルジェリア以外で唯一国境を接している隣国リビアへはこの時、外国人の陸路入国を制限していてバイクでの入国は不可能であった。この国は陸の孤島になってしまったのだ。
とりあえず残された道は、フランスのマルセイユへフェリーで渡り、そこのアルジェリア領事館でもう一度アタックするしかないが予約を入れた出港までの3日間で予備の手、再びスペインからモロッコに入り、西サハラを下ってモーリタニアを抜け、セネガルへと出るルートを当たることにした。ただし、これにはウィークポイントがあった。西サハラだ。
ここは前年あたりまで独立でモメていて外国人は入れなかったのだ。ただ、今では独立を諦め、モロッコに編入する、という情報があった。幸いここには両大使館ともあり、状況を聞きに行くと心配していた西サハラも何とか通れそうなのでとりあえずモーリタニアのビザを取ることにした。
★ 今ではアルジェリアへの入国は不可能になり、この西サハラ → モーリタニア → セネガルがサハラ越えメインルートとなりました。 (筆者注)
またモロッコへの同じ道を行くのも気が重くなるがしょうがない。思えば湾岸戦争も激しくなり、アラブ人気質を考えると欧米=先進国に敵対しているフセインに味方をするということは当然のことなのだ。過激派アラブ人のテロ防止のため、チュニスの街でさえ至る所に武装した軍人が立っている。アルジェリアはこの国よりもっと過激なのだ。イギリスとフランス大使館の前には装甲車と戦車までが睨みをきかし、アメリカ大使館に至っては付近の道路は鉄条網で封鎖され、路上には戦車、フル装備の兵隊が検問をしている、という物々しさである。

チュニス市内、メインストリートのキオスク
地元の人達の話を聞いたりニュースを聴いたり、肌で感じたりして分かったことだが、マグレブ3国でアラブ人の割合が一番少ない( ほとんどいない )モロッコはまるで人ごとのような雰囲気。チュニジアは、アラブ人がほとんどを占めてはいるもののヨーロッパ化された生活の恩恵に浴していて、今更昔には戻れない、と戦争に否定的。フセインに味方する人はほとんど居ない。逆にアルジェリアは生活も貧しく、同じアラブ人として同じくアメリカを良く思っていない歴史もあり、圧倒的にフセインの味方が多い。またこの違いが、後にアルジェリアでイスラム原理主義が台頭してくることに繋がっていくのだろう。
ひとり、観光客のいないカスバを夢遊病者のようにフラフラと歩く。雑踏のざわめきの中から、たぶんラジオだろう、ジョン・レノンの “ イマジン ” が流れてきてしばし足を止めた。
なぜか突然熱いものがこみ上げてくる。アラブ人と分かり合うことはとても難しい、出来ないかもしれない。だけど、戦争をしてはならない、殺し合ってはいけないのだ・・・。
美しい旋律がアラブの街を包み込んだ。『 国なんて無いと思ってごらん・・・ 』 という歌詞が聞こえてくる。これからどうなってしまうのだろう。目頭が熱くなる・・・。
翌朝、フランス行きのフェリー乗り場へ行ってみると何処に居たのか、ヨーロッパ人が30人ほど集まっていた。その中に、ドイツナンバーの改造したバイクとサイドカーが一台ずつ止まっていた。
サイドカーの髭もじゃのごつい男に聞いたらこれに4WDを加え、地図にも載っていない、無給油800キロのルートを2本と地図にあるダートを3週間に渡って走って来たのだという。ガソリンタンクはサイドカーが60リットル、バイクが45リットル、4WDには予備を100リットル積んでいた。そして、600CCのバイクのドライバーは女性だった。すごい。
ヨーロッパ人はこういうことを平気でやってしまう 。私もそうだが、日本人ならたいそうな準備をして、戦争にでも行くような悲愴な思いで行くのだが、彼らは隣町にでも出かけるように気軽にアフリカにやって来る。とてもマネはできない。ちょうど私のバイクがチェックイン30分前にパンクしてしまい、それを手伝ってもらったのだが、やはり完璧主義者のドイツ人らしく、旅で出合ったドイツ人は皆そうだったが、彼らも持っている工具がすごかった。ちよっとしたバイクショップなみなのだ。その彼らの工具のおかげで乗船に間に合うことができた。
これがイタリア人だったら、バイクはノーマル、工具もバイクに付いているのだけ、なるようになるさ、といかにもラテンのノリでやって来るのではたして間に合っていたかどうか。ヨーロッパ人のバイク文化とアフリカに対する考え方は日本人とは全く違う 。多くの日本人が完走さえむつかしいパリダカは、案外こんなところに理由があるのかも知れない。
 ドイツ人カップルサイドカーとバイク。後ろに積んでいる赤いのはガスタンクだ。
24時間後、マルセイユに上陸。ちょうど一カ月前訪れた街だ。思ってもいなかったフランス。双六でいえば“ ふりだしに戻る ”を引いてしまったようなものだ。この日はちょうど日曜日、当然領事館は休み。しかも何と翌日も祭日で休みだったのだ。さすがに今までズブトイ、と思っていた私も胃が痛くなった。この一日が今までの人生で一番長い日となった。
そして火曜日、運命の日がやってきた。にわかイスラム教徒になってアッラーの神に祈りながらアルジェリア領事館の窓口へ行き、そーっとパスポートを出した。すると、何とすんなりとビザが出たのだ!アッラーの神は最後に願いを聞いてくれたようだ。サイコロの出目は“元に戻る”に止まった。これでサハラを見れる!

チュニス郊外にあったローマ時代の水道橋跡とそこにローマ時代から居た(ウソ)オヤジ
遂にサハラ
翌日、再びチュニスへと向かう船上に居た。来た時はフランス船だったが今回はチュニジア船。同じ料金なのに設備がまるで違う。料金の倍分くらい違うのだ。フランス船のベッドには綺麗なシーツが敷いてあったがこの船は破れたきったないビニール剥き出しのベッドで船内の設備も話にならない。
その夜、船の中で面白いことを発見した。ヨーロッパへ向かうアラブ人は借りてきた猫のようにおとなしいのだが、アフリカへ向かうアラブ人は人が変わったように大酒をくらい、大騒ぎをしているのだ。故郷に帰れる気の緩みなのだろうか。とにかく酒グセが悪い。モハメッドが、酒を飲んじゃいけない、とコーランで言ったのはアラブ人の酒グセの悪さを知っていたからだ、と確信したくらいひどかった。
再上陸2日後、チュニスから560キロ走った所にあるチュニジア最後のオアシス、ネフタにいた。目の前にサハラが広がっている。10日と10万円ほど無駄に使ってしまったが、ついにサハラに入ることができるのだ。

チュニジアの砂漠の中に突如現れた塩湖
チュニジアとアルジェリアの国境は、もうすでに深い砂の中にあった。チュニジア側の手続きは4度目にして初めてノーチェックで通過。そこから8キロほど先のアルジェリア国境へと向かう。緊張する。今回はビザを持っているとはいえ入国してしまうまで安心できない。以前ヨルダンで入国拒否にあっているし、今回の大使館の対応を考えるとアラブの役人は信用できない。
イミグレーションに入る。入国カードとパスポートを渡すと延々待たされた。やっぱりか?気が気ではない 。緊張の時が過ぎてゆく 。また胃が痛くなってきた。後で来たアラブ人達が次々に通関していくのを見ながら、『 こんな所で追い返されてたまるかい!』 と独り呟く 。
ところが、1時間待たされたもののすんなりスタンプをくれたのだ!ただ、まだ入国したわけではない。手続きが全部終わる前に取り消しにならない保証は無いのだ。今はイミグレを通過しただけで税関が待っている。係官の気が変わるんじゃないか、と気が気ではなかった。手続きは30分を要したが、それが数時間にも感じられた。だが、遂に全てが終わり、国境のゲートが開いた!そして、そのまま振り返りもせず一路砂漠の中の舗装道路をつっ走り始めた。気が変わらないうちに早く消えてしまったほうがいい。

サハラへのメインルートの分岐点
国境の建物がバックミラーから砂の中に消え去り、見渡す限りの砂の世界に入ってやっとホッとすることができた。ともかく良かった。つい1週間前には夢と消えそうだった光景の中を今走っている!あれほど日本大使館、アルジェリア大使館が騒いでいたのは何だったのだろう、今までの苦労は何だったのだろう。
しばらくするとそんな思いもバイクの後ろに吹き飛んだ。道以外人工物が何も見えない砂漠を走る。砂漠の砂が眩しい。風も爽やかに吹き抜けている。エンジンのノイズが風の音に聞こえてきてそのうち自分が風になったように思えてきた。こんな気持ちのいい走りは初めてだ。この砂漠を全て自分のものにしてしまったような気分になった。この日、230キロ走り、トガートという小さな村の小さなキャンプ場に泊まった。
ディープサハラへ
翌日、思いのほか道が良く600キロ程も走り、エルゴレアに到着。ここはかなり大きいオアシスで、道路を挟んで街が細長く延び、その奥には広大なナツメヤシの林が広がっている。果てしない砂の中を旅していると砂の中にある緑の孤島のようなオアシスは何て不思議な存在なのだろう、と思ってしまう。これがあるからこそサハラは死の大地ではないのだ。そして意外なことにこの街の電気は全て日本の援助で造られているのだそうで、日本人も何人か働いているらしい。日本人としては鼻が高い。対日感情もいいようだ。
まだこのあたりはサハラとはいえ全然暑くなく、それどころか夜はかなり冷え込むし、物価も安いのでテントはやめてホテルにチェックインした。晩メシを食った後ノーヘルで街をうろつく。この国ではヘルメットは被らなくてもよいのだ。
街の外れまで行くとキャンプ場の看板が目に入った。中は街灯もなく、真っ暗であまり居心地は良くなさそうだったが、何か不思議な予感がしてつい中に引き込まれた。そうしたら、やはりそのカンは見事に当たっていた。

なーんもない土漠の切り通しの上に現れたオヤジ。手を振ってくれた
パリを出発して1カ月も経つと以前の旅のカンが戻ってきていた。ガイドブックなしでいいホテルを見つけ出したり、街の中心部に一発で行けたり、道に迷わなかったり・・・。語学才能はないけど、こういう才能はあるようなのだ。
さてそのキャンプ場。レセプションの前にバイクを止めると、何と暗闇の中からあのモロッコで会ったベルーガ青年がひょっこり顔を出したのだ。約3週間ぶりの再会。聞けば、モロッコからタマンラセットまで走り抜き、そしてそこでバイクが死に、修理したが直らずここまでトラックをヒッチして運んで来た、という。ヤツもバイクもボロボロになっていた。
私がチュニジアに行ったぶんヤツの方がタマンラセットに辿り着いたのが早かったという事だ。さっそく近くのレストランで再会を祝い、3週間のことを語りあった。
余談になるのだがその時、店のオヤジが闇両替を持ちかけてきて、率が良かったので交換することにした。100フランが600ディナール。公定レートの約3倍だ。チュニスのアルジェリア大使館では『 ビザくれたら絶対ヤミ両替はしません!』と心に誓ったものだが結局くれず、再入国にえらい金がかかった ( 前記 )のでヤミで少しでも元を取ることにした。酒は無い国なのでお茶をすすりながら延々旅を語り合った。バイクの一人旅という共有する物があれば何も要らない。だが店が閉まり、10時過ぎ追い出された。明日再修理をする、と言うのでこのまま出発する訳にもいかず、明日1日つき合うことにした。


アラブ風のスタンドと砂に埋もれたスタンド。エッソとモービルのアラビック看板
翌日、近くのガレージでバラしてみる。各部ガタガタ。それに全く圧縮がない。何とピストンリングが三分の一ほどまで擦り減っていた。こんな所にヤマハのスペアパーツがあるはずもなく、プジョーのモペットの部品が使えるか、と一縷の望みを持って部品を探したものの結局サイズが少しだけ合わず、望みは消えた。再びトラックに載せ、北上するしか他に道はないようだ。
「行き当たりばったりの無計画の旅だったけどタマンラセットまで行けて満足です。故障の原因も分かって諦めもつきました」
というヤツの顔は爽やかだった。
若い頃は自分で責任が取れる範囲の中で無謀な旅をすることはいいことだと思う。若さで乗り越えられるし、それがきっと将来何かの糧になる筈だ。
この歳になると無謀なことをする体力も少なくなっているけど、オレも以前はこんなんだったんだろうなあ、と、しばし昔の記憶が蘇ってきた。思えばそんな昔のことではなく、オーストラリアの旅でさえこんな感じだったんだろう・・・と。 翌朝、同宿したホテルで別れの朝食を食った後、出発する。ヤツもきっと無事フランスに辿り着けるだろう。ボンボヤージュ!

いつもこんな昼飯。いずれも200円くらい、美味かったなあ
そして、ここからサハラへの入り口、タマンラセットまでの1000キロあまりを2日半かけてゆっくり下った。今ではほとんどキレイに舗装されている。アスファルトが割れ、穴ボコが続く所がほんの30〜40キロあるだけであっけないほど簡単に走り抜けることが出来た。しかし、時速90キロで飛ばす道路の左右に時おり現れる細く荒れた旧道を見ると昔の旅人の苦労を思わずにはいられなかった。たぶん、がんばっても四日はかかっただろう。この頃だったらとてもサハラを越える勇気は、ない。

インサラーの入り口と砂漠に入る前に現れた岩山
3日後、タマンラセットの街はずれにあるキャンプ場に着いた。ここには今までとは違いヨーロッパナンバーの4WDが数台、バイクが2台止まっていてホッとした。このキャンプ場はサハラを目指す人は必ず泊まる所で情報交換の場にもなっている。広さは草野球場くらいで割と綺麗なトイレと水シャワーがあり、なかなか快適なキャンプ場だ。街にもかなりのヨーロッパ人がいてさすがにここまで来ると戦争も関係ないようだ。街をうろついてみても砂漠の遊牧民、トワレグ族がほとんどでアラブ人の割合が少なくなっていることもあり、緊張した雰囲気は全く無い。

インサラーの市場とオヤジども
もうここから先は砂しかない世界だ。ここでの仕事はサハラ越えの最後のバイクの整備をじっくりやることと心の準備をすることだ。そして次の国、ニジェールのビザも取らなければいけない。
そのビザの発行を待っている間、開拓時代の古い教会があるというアセクレムと呼ばれる岩山への山登りダートを走りに行った。ここは初期の頃“パリダカ ”のコースにもなった所で、砂、岩場、ガレ場、ワジと呼ばれる深い砂の川の跡まである一周200キロあまりのすごいコースだ。

アセクラムへの道。野生のラクダがいた
最初の数十キロは少しのブッシュの中を走る砂の道。そしていつしか木一本無い岩山になった。高度もどんどん上がっていき、見渡す限り岩山が続く荒涼たる景色になった。行き交う車も人もいない。たまに野生のラクダがいるだけだ。こんな所を半日も走っていると地上から人が居なくなってしまったんじゃないか、という気になってくる。
夕方、山の中腹に土作りの小屋が見えてきてほっとしてしまった。一見無機に見える景色の中に生命の匂いがしたからなのだろう。

アセクレムの山小屋。裏山に登り、通ってきた道と真下に山小屋を見る
ここは山小屋になっていて有料で泊めてくれる。中に入ると三人の男がいた。ここで働いている男たちで、日本からバイクで来た、と言っても驚きもせず、『よく一人出来たな 』 と言うでもなく、当たり前のように迎えてくれた。何か不思議な宿だ。この日の泊まり客は私だけ。もちろんこんな所にただ宿がある訳ではなく、この小屋の裏の岩場を百メートルほど登った所にある教会を訪れる人の為に造られた宿だ。ここは北アフリカにおけるキリスト教の聖地となっているらしい。
さっそくそこに登ってみる。息を切らして頂上まで登ると石を積み上げて造った小さな教会があり、そこにヨーロッパ系白人の神父さんが一人で住んでいた。山小屋の男たちは一週間ごとに街に帰るのだが神父さんは正に世捨て人のようなたたずまいであった。
そのうち日が暮れた。真っ赤に染まった岩山が地平線まで続き、この世の物とも思えない景色になった。無神論者だが、ひょっとしたら神が居るんじゃないか、という気になった。

教会からの景色。今まで経験してきたことが、全て幻と思えてくる。この世のものとは思えない景色だ!
夜、男たちが作ってくれたクスクスをローソクの灯の下、4人で食った。彼らは巡礼者の宿の仕事は勿論だが神父さんの世話もしているようだった。夕食が終わるとやることもなく、寝るしかなかったが満ち足りた眠りに就くことができた。

幻想的な夕日とこの夜のクスクス、最高だった
翌朝、山の反対側へ下る。この道は来た道より更に険しく、教会に来る人も滅多に通らないから止めとけ、と言われたが行くことにした。崖から落ちたら一巻の終わり、の岩場を降りていたら、テネレ( ヤマハ製600ccバイク )3台と遭った。女性が一人いるフランス人達で、後から登って来た4WDがサポートしてこれから南アフリカまで行くのだという 。
『 世界一周中でこれから南アへ行く 』と言ったら驚いていたが、同じ事をやっている者どうし気持ちはすぐに通じるものだ。話も弾み、30分ほど話しをして分かれたがまた何処かできっと会えるだろう。


こんな道が200キロほど続く
キャンプ場に戻って5日後、ついに今回の旅最大の難関になるであろうニジェール最初の街、アーリットまで、約600キロの砂だけの世界へ向け出発した。
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