アフリカの風になって 3

 

砂だけの世界

   
ラクダ市とキャンプ場出会ったサハラを走ってきたフランス人

 タマンラセットからニジェールのアーリットまでの約600キロは砂の道になる。
 いくら砂漠でも幹線道路だし、ここまで思ったより簡単に来れたからまあ大丈夫だろう、と軽い気持ちで出発し、最初の数10キロはその通りに進んだがその甘い考えは100キロも走らないうち、消えた。舗装道路が穴ボコ道になり、造りかけの道になり、遂に砂だけになった。そして、この頃からアフリカに入って始めて暑い、と言えるような気温になった。

  
  いよいよ出発。ベンツウニモグでナミビアまで行くというカップル。

 意外かも知れないが冬のサハラ、タマンランセットまでは昼でも冬用のジャケットを着ないで走っていると寒いくらいで、夜などは走っていなくてもかなり冷えるのだ。目の前には轍が見渡すかぎりの幅に広がっている。どれが本当の道か分からない。この砂の道には荷物が重すぎる。深い砂にパワーを吸い取られ、すぐにスタックする。押しても抜けられなくなると荷をおろし、固い砂の所まで運び、車体を軽くして押し出すしかない。バイクがハマる砂の上では歩くのさえ大変で、ましてやバイクに積んでいた40キロ程の荷物を持って歩くと足がズブズブと砂に吸い込まれていき、まともに歩けもしない。
 暑い。ほんの20メートルくらい先の、島のように見える固い砂が何キロも先のように思われる。ノドがガラガラになる。荷物を固い砂の所に置いてバイクの所に戻り、エンジンフルパワーをかけて押し出し、固い砂の上まで行き、再び荷物を積み、走り出す。そしてまたスタック、その繰り返しでこの日、砂漠の中を8時間もかけて100キロしか進めず、終えた。

  
いきなり暑くなってきた。見渡す限りだーれもいない、人工物もない、砂しかない世界。

 360度地平線が広がる砂の上にテントを張る。夕焼けは出ず残念だったが不思議な気分になった。オーストラリアの砂漠とも違う、何といえばいいのだろう。大陸の大きさの違い、それもあるだろう。それよりも、あんなに厳しかった大地がウソのように静まりかえり、その中に独りいる自分の存在自体が不思議なのだろう。
 2〜3キロ先を車が数台通り過ぎて行った。音は砂に吸い取られ、光だけが通り過ぎる。違う世界の出来事を見るように車を見送った。どうやらそこがメインルートらしい。暗くなっても走っている車がいる。
 シートを外に出し、満天の星空を見上げながら寝っころんだ。生まれて初めて地球の上に寝ている、という実感が湧いてきて、そのうちあたりは砂の世界に包まれた。当然のことだが虫の声も聞こえず、風の音もしない。何の音もしないのだ。これまた生まれて初めての無音の世界の中に居た。経験しているようでしたことの無かった世界。不思議な世界だ。


 その砂しか無い世界で遠い日本のことを思う。物に囲まれた生活を思う。ついこの間までそういう生活をしていたのが遠い昔のことのように思えてきた。思えば遠くへ来てしまったものだ。

「 ここーは地の果ーて アルジェーリア〜 」

という昔の歌のワンフレーズだけが妙に脳裏に蘇えってきて思わず口ずさんでしまった・・・。だーれも居ない世界に一人でいる、悲しいなあ・・・。

 翌朝、朝日に向かって野グソ( 失礼!)をすると再びパワーが蘇ってきた。朝8時、とりあえず数キロ先のメインルートらしき所に行ってみる。まだ気合い十分なので多少深い砂でもグイイーッと脱出して進むことが出来る。
 さて、そのメインルートに出てみたが今までの所と大して違わず、新鮮な轍がいっぱいあるだけだった。そこをアラブ人の乗ったボロ車が走り去る。彼らの車は2WDのトラックやプジョーの古いタイプなのだけど不思議なほどスタックは少ない。120キロくらいのアベレージで走ると、深い砂の所でもうまく砂に乗って抜けられるのだ。バイクだと轍にハンドルを取られ、そんなにスピードが出せず80キロほどで深い砂に突っ込むことになる。すると砂にパワーを喰われ急激にスピードが落ちる。舗装路でフルブレーキをかけたくらい、といえば想像してもらえるだろうか。
 そして、それと同時にギヤをガンガン下げてパワーを持続させて乗り切るのだが、いかんせんこちとらフル装備で人間を入れて300キロ近くにもなっているはずで、深い砂だと20〜30メートルしか持たず、それを超すと、ちとヤバイ。空荷だったらたぶんこの倍、600CCだったらトルクでドコドコと抜けられるのだろうが、しょうがない。
 この日、まだ昨日と違い深い砂の前で止まり、周りを見渡して固そうな所へ迂回する余裕がある。その何度目かの深い砂の前で思案している所へフランスナンバーのボロプジョーが5台止まり、アラブ人のオッサンが10人出てきた。
 挨拶を交わす。
「 メシ食ったか?」
と聞くので、
「 オレンジ1コだけ」
と答えると、車の中からナツメヤシがいっぱい詰まったカゴとフランスパンを取り出してきて、
「 食え 」
と言ってくれた。
 ありがたい。砂漠をナメていてこの時、少しの食料と水しか持っていなかったのだ。
 しばらくの間話をしてパンと水を貰い出発する。オヤジが、
「 先導するからついて来い」
と言うので後を追うが、砂にタイヤを取られ思うようにスピードが出ず、みるみる離され、数キロで見えなくなった。


スタックしたプジョーをみんなで押し出す

 数時間後、何度目かのスタックで荷物を降してヒーヒーいいながら運んでいると彼方に車が止まっているのが目に止まった。どうやら先ほどのプジョーらしい。向うでも気が付いたのか、1台のトラックがこちらに向かって来た。
 手を借りて難なく脱出。すると今度はプジョーがハマった。これも多人数だとけっこう簡単に脱出出来るものだ。本隊に合流すると1台がタイヤ交換しているところだった。一息いれているとオヤジが、
「 この先はもっと砂が深いからバイクじゃ無理だ、トラックに積んでけ 」
と、しきりに勧めてくれる。だがまだ日は高い。パワーもまだある。水だけ貰い出発し、再び砂との格闘を始めた。その後、本当に砂が深くなりスタック、立ちゴケ続出。コケると起こすのが大変だ。バイクを持ち上げて起こすのだが、起こした分バイクの重みで足が砂の中に沈み、バイクは再び倒れ、起こせない。
 そういう時はまず荷物を外し、軽くした上でバイクの横に穴を掘り、その穴の中にバイクを落とし、立てるのだ。言うのは簡単だが大変な作業だ 。こんな所、このバイクじゃ無理だ、アッチー、クソーと唸りながら、それでも朝から8時間走り続け岩場の所へ出た。
 そこにでっかいカミオン( 大型トレーラー ) が止まっていて、近くに例のプジョーも止まっていた。手を振って迎えてくれる。
「 今からメシを作るから食ってけ 」
という。

     
トラックオヤジもプジョーオヤジもいっしょにみんなで手を出して食う。燃えたBMW。

 今までの旅で出会ったアラブ人はイヤなヤツが多かったけれど、彼らを見ていると砂漠の民の本心に触れたような気持ちになった。見知らぬ車がスタックしていても当然なことのように手助けする。言い争いはよくしていたが、こういう時は一致協力して対処するのだ。この時もそうやって合流したプジョーが1台増えていた。
 彼らはアルジェリア人で、フランスで中古車を買い、陸送でニジェールまで走り、売る、という仕事をしていると言う。いい稼ぎになるらしい。
 食事になった。メニューは肉と野菜を大鍋で煮てケチャップで味を付けただけだが、旨い。これをみんなで手掴みで食う。食後の茶を飲んでいるとオヤジがトラックのドラム缶をもう1台のトラックに移し始めた。何してるんだろう、と思っていたらバイクを積みだした。
「 もうこの先は無理だから、ここに積んでけ 」
と言い出したのだ。
 考えてしまった。サハラを越えるために来たのにここで諦めてしまうのか・・・、しかし、ここまでしてくれて断れば彼らのプライドを傷つけることになる・・・。
 考えた末、もうゆっくりしすぎて暗くなるまで街に着くのは無理だし、体力も気力も限界に近いし、エンジンも回し過ぎたし、クラッチも思いっきり滑らせたし、ここでバイクを壊す訳にもいかないし・・・、と無理に納得した。ああ、あと60キロを残してリタイアだ。トラックに乗り込む時、何か後ろめたい気分に襲われた。パリダカのリタイアもこんな気分なのだろうか・・・。

 その日、すっかり暗くなって国境の街インゲッサムに着いた。砂漠の中に薄暗い街灯が頼りなげに点在する小さな集落だった。だが、ここはサハラのど真ん中。こんな街があることだけでも不思議なことであり、電気さえあるのだ。
 そんな街の、ただ一軒あるレストランの前に車は止まった。店は既に閉まっていたがオヤジどもは馴染みらしく、店のオヤジを起こし、なにやら話し込み、飲み物を出して貰っている。この日、このレストランの軒下にオヤジどもと一緒に寝た。

  
インゲッサムのメインストリートと唯一のメシ屋。ここの軒下で寝た。

 翌日、7時前に起き出し、レストランで食事。その後プジョーの修理に付き合ったのだが、太陽の下で見る“ 集落 ”は予想外の大きい街だった。ガソリンスタンドが1件( 売り切れだったが )車の修理工場も何軒かあり、数百人は住んでいるように思われた。木さえもちらほら植わっている。プジョーの穴の開いたラジエターを修理し、午後オヤジと別れ、再び愛車と共に走り出した。

 街外れからイミグレーションオフィスまでは約30キロ。ここは吹き溜まった砂が深く、街の端の家を過ぎ、数十メートル行った所で早くもスタックしてしまった。何度もスタックし、ようやく砂丘を越え、遠くにオフィスの建物が見える所まで近づいたら砂の山の間にドイツナンバーの新型ベンツがスタックしているのを発見した。
 バイクを止め、手伝ってあげることにする。ドライバーはドイツ人の青年。彼も陸送の仕事をしているそうで、新車のベンツを買い、アルジェに上陸して何と2日でここまで来た、と言う。
 私がタマンラセットからここまで来る間に、彼はその5倍程の距離を走って来たことになる。凄いスピードだ。重い2WDのベンツでよくこんなに飛ばせるもんだ。しかも、初めてのスタックだという。彼は “ パリダカ ” に出たら優勝出来るんじゃないか、とさえ思った。フツーの人でさえヨーロッパ人はこうなんだから、やっぱり日本人のフツーの人がパリダカに出ても勝てる訳はないのだ。
 そう言えば、昨日、砂漠の中を160キロほどのスピードでスッ飛んで行くBMWとベンツを見た。遠かったし、あまりにも現実離れした速さだったので幻か、と思っていたらやはり本物だったのだ。そして、黒コゲになってスクラップになっていたBMWも見たっけ。


サハラは広い。場所によって砂の色が違うのだ

 さて、ベンツのスタック脱出法。
 まずボデーの下にベニヤ板を敷き、それにジャッキを乗せアップしてタイヤを浮かし、そのタイヤでえぐられた穴を砂で埋め、踏んずけて固める。それを両方やるとあら不思議、車が30センチほど浮き上がってスタックする前の状態に戻るのだ。
 こうやって再スタートしたベンツは固い砂の所で止まってフランス製の缶コカコーラを1本くれた。余談だが、アルジェリアにはコカコーラは売っていない。
 彼の話だと年に2台も運べば十分暮らしていける程儲かるらしい。ただし、フランス語が堪能でなければダメだそうだ。プジョーのオヤジは年に4〜5台運ぶと言っていたが、ボロプジョーと新車のベンツの違いなのだろう。彼は今日中にアガデスまで行く、と言って去っていった。ここからアガデスまでは600キロ以上もあるぞ、ほんまかいな、と思ったが、先ほどの話が本当なら行けるかもしれない。しかし、とんでもないやつだ。
 そうして、2時間もかかってやっと砂の中のイミグレーションオフィスへ辿り着いた。

 

ブラックアフリカへ


ニジェール国境にテントを張る。右がイミグレオフィス

 出国手続きに一時間かかり、再び砂の中へと走り出す。その30キロの中立地帯を抜けるといよいよブラックアフリカの入り口、ニジェールに入る。
 土で造ったオフィス数軒と、レストランが一軒、低い木が数本生えているだけの電気も井戸も無い砂の中の集落が国境だった。国境線と言っても集落の前30メートル程の所に石を低く積んだ塀があるだけで、やろうと思えば簡単に密入国出来る。砂が深く、バイクを立てる場所を探すのにも苦労するような場所で、やっとバイクを止めたら先ほどのベンツが出発していく所だった。本当に今日中にアガデスへ着けるだろう。
 ここで思いのほか手続きに時間がかかり、日が暮れた。ブラックアフリカ初日はここにテントを張ることになった。集落にある一件だけの掘っ立て小屋レストランでニジェール製のビールを買い、テントの前でアルジェリアの方を向いて座り、飲んだ。久しぶりのビールはぬるかったが腹に染み渡った。

  
始めて道しるべを見た。こんなものでも心強いものだ

 翌朝、東に向け出発する。意外と砂の状態が良く、最初の街アーリットまでの200キロを、前日の名誉挽回とばかりに飛ばす。サハラ砂漠は、アーリットへ入る10数キロ手前からようやく少しの草と低い潅木が見えるようになった。
 日本も参加しているという、大きなウラン鉱山が見えてくるとやっと街へ着いた、という安堵感が湧いてきた。同時に、もう砂漠はおしまい、という心残りもちょっぴり頭を掠める。そうこうしているうちに何とガス欠。インゲッサムのガソリンスタンドが売り切れで、アラブ人のオヤジに少し分けてもらっただけで来てしまったのだ。バイクを横にしてタンク内のガソリンを集め、何とか街まで辿り着くことが出来た。そうしてこのルートを休憩、撮影を入れて4時間で抜けた。

  
アーリットに上陸。始めてのブラックアフリカだ

 街は鉱山から続く砂の道を数キロ南下した所にあった。街に入ると道の両脇にはメシ屋とバイク屋、車屋がずらっと並んでいて、同じくらいの砂の街、インゲッサムより活気があり緑も多い。当然のことだが周りの顔が全部黒色になった。今まで世界を半周してきて陸路を走ってきて、こんなにいきなり雰囲気が変わったことは始めてだ。生まれて初めてのブラックアフリカに少々ビビる。
 アラブ大陸からサハラという砂の海を越えブラックアフリカ大陸に上陸した、という気分で、ここまで雰囲気がいきなり大きく変わってしまうと本当に海を越えて来たのだ、と思えてくる。
 そう言えば“ ランドクルーザー ”という車があったっけ、いいネーミングだ。そしたらバイクは小さなボート、ラクダは手漕ぎボートかな、などと考える。結局、暑さでボーッとしているのだ。気温は軽く40度を超えている。まずは喉の渇きを癒そう。

 この街はちゃんと昼間から電気が来ていて、道端には冷蔵庫がデーンと置いてある“ 飲み物屋” “メシ屋”があって何とコカコーラがあるではないか!さっそく2本イッキ飲みをする。腹に染み渡る。腹どころか指先の細胞にまでプチプチと音をたて水分が浸透していくのが分かる。ぬるい、キタナイ水でもそうだったのに冷たいコーラじゃなおさらだ。
 一息ついて最初の仕事、警察を探し出し、行ってみた。この国では大きな街へ着くと外国人は警察署へ行ってスタンプを貰わなければいけないことになっている。ところが、ここ以降何処へ行ってもその都度タックスとかバイク通行代とか称して金を取られるハメになったのだ。何で街に入る度にタックス払わなけりゃいけねーんだよ!と怒ってもギョロッとした目のポリスにスゴまれると払わざるを得ない。領収書も出しているのでまさか警察官のアルバイトでもないだろう、と思っていたらどうやらそうでもないらしい。


パックマン(古い?)のようなのは穀物小屋

 アガデスでいろんな人に話を聞いたらやっぱりアルバイトらしい。それも、給料が安い代わりに国が認めたアルバイトだそうで、真相やいかに・・・。実際グタグタ文句をタレたらまけてくれたり、タダになったりした街もあったので本当なのだと思う。アフリカは何でもアリの所なのだ。
 アーリットでのポリスチェックに一時間もかかり、そのまま240キロ先のアガデスへ。そして再びポリスチェック。さんざん待たされ、日が暮れた。

 宿探しを始める。この街のホテルはメチャクチャ汚く、高い。汚さではインドと同水準かやや上、料金はずっと上で、たぶんコストパフォーマンスの低さでは世界でもトップクラスのようだ (後で行ったマリはこの上を行くヒドさだったが・・・)。何軒目かのホテルを当たりに行く路上でひょっこりタマンラセットのキャンプ場で一緒だった日本人に再会した。一足先にアラブ人の車に便乗して出発していた彼は2日前にここに着いた、という。メンドくさいので彼の泊まっているホテルに行くことにした。
 部屋を見せてもらうと、広さは8帖くらいはあるがコンクリートを打っただけで窓も無く、それに、何年使うとこうなるのか、というくらい人間の生活臭が染み込み、どす黒い、何ともいえない色に変色している壁が裸電球に光っているだけだった。
 以前ブチ込まれたインドのブタ箱を思い出してやや血の気が引いたが、とりあえず朽ち果てそうなパイプベッドとカーテンも無く、蛇口に繋がったパイプが剥き出しのシャワー室があり、かろうじて“ホテル” している。
 もちろん、シーツもタオルもある訳はないし、そのベッドのマットレスは煮しめたような色をしていてスプリングがへたって両端が盛り上がっているし、共同のトイレは水浸しでかなりクサイのだが、まあ今日はこれで良しとしよう。

  
アガデスの宿とモスク

 4日ぶりの水シャワーを浴び、彼と近くのメシ屋に腹ごしらえに行くことにした。薄暗い裸電球一個だけのキタナイ店で、メニューも無いし言われても分からないのでいつものように炊事場を覗きに行ったらメシにカレー状の物をかけたのがあってそれを注文する。
 食べてみたら、何とハヤシライスそっくりの味でびっくりした。アフリカのこんな田舎でハヤシライスを食えるとは思わなかった。何とも不思議なものだ。
 その後、ホテルのバーで冷たいビールを飲み、再会の乾杯をした。彼の話によると、彼の乗った車の運転手は砂漠にあまり自信が無かったのか、砂漠の民、トワレグ族の男を雇って出発したらしい。ところがその男の言う方向は砂が深い所や遠回りの道ばかりで何度もスタックして大変だったらしい。スタックしても男はアッラーの神に祈るだけで手伝いもせず、結局4日もかかってしまったという。
 トワレグ族のガイド付きで完璧そうな車が4日もかかったのに、数度しか来たことがないドイツ人が1日で抜けて来たことを思い出し、ふたつので出来事を重ね合わせてみた。そして、サハラを自分の庭のように知り尽くしている、と言われるトワレグ族にも方向オンチがいることを知り、おかしくて2人で笑ってしまった。ビールを3本飲み、地元のオヤジとも話したりして久しぶりに盛り上がり、11時過ぎに部屋へ帰った。
 サハラを超えてきた安堵感と充実感も沸き上がり、久しぶりの冷たいビールも手伝ってくれ、気持ちいい。キタナイ宿だけどこの気分の爽快さは何だ。日本じゃ高級ホテルでも味わえないぞ( たぶん )と思って横になった。ただしそう思ったのは寝るまでの話で、夜中、蚊の大群に悩まされ、サイテーの宿だ!と思ったのだった・・・。

     
アガデスのマルシェ。パリダカの忘れ形見(写真はムースタイヤ)がいっぱいあった。
砂漠に何でスキー?実は砂丘でやるのだ。ヨーロッパ人が売って帰ったモノだ。

 翌日、彼はビルマ(テネレ砂漠の街、パリダカの中継地にもなった)ツアーへと旅立って行った。見送った後、サハラ越えで汚れたチェーン、エアフィルターを近くのガソリンスタンドで洗うことにした。整備をしていると人だかりが出来た。見せ物になるのはもうすっかり慣れてしまっていて遠目でヒソヒソ話しているのも気にしない。インド人のように手を出して勝手にいじくったりしないし、工具を持っていきそうな危ない雰囲気も無く安心だっだが回りをぐるりと囲まれ、全く風が通わず、暑くてうっとうしいのには閉口した。
 その後、マルシェ( 市場 )を覗きに行く。フルーツを買ったりして店をひやかししていたら、何とタイヤが売られているのを見つけ、驚いた。せっかくわざわざヨーロッパから運んできたのに、苦労が無駄になったようで力が抜けてしまった。パリダカのリタイア車とかスペアパーツを出場者が売って帰ったらしく、中古が多かったが十分使えるものばかりだった。スペアタイヤが無かったらサハラも随分ラクだったろうなあ、と思ったがもう遅い。そう思ったからではないが、ホテルに帰り、荷物になるのでタイヤをここで交換することにした。まだタイヤは使えるが、ここで交換してもコートジボアールまでは十分持つ。ツーリストの話だと、そこでもタイヤが手に入るらしい。中庭で作業をしているとオヤジが、
「 これ敷いてやれ 」
とゴザを持ってきてくれた。そうしてムリヤリ手伝い出した。
 そうこうするうちもう一人オヤジが来て参加してきた。好意でやってくれてると思うとムゲには断れないが、一人でやった方が早いような気もする。まあいいや、国際親善だ、急ぐことでもないし、と思って一緒にやることにした。この街では日本人を見ると、
『 シノワー、シノワー ( 中国ジーン )』
と言ってバカにするヤツも多いが、こんな気さくな人も多い。そう言えば昨日、日本からバイクで来た、と言ったらビールおごってくれた人がいたっけ。
 一時間半ほどで終わった。この2人のオヤジも本当に全くの好意だった。今までこうやって無理矢理手伝って、最後に、手伝ったから金払え、というヤツらに何度も出会っているので今ではすっかり見分けが付くようになっていた。今回も間違いなかったようだ。ただ、旅を続けてる中で、無償の好意には報いるように心がけている。大したことはしなくてもいいのだ、この時も、ビールをおごってあげただけだが、十分喜んでくれた。

   
アガデスのマルシェ2。焼き肉屋とサソリの毒消し屋?

 

何でもアリ!

 2日後、首都ニアメイに向け出発する。この日、朝7時にはすでに気温は35度を超しており、昼頃には47度を超した。
 アガデスの街を一歩出るとそこは一面のサバンナ地帯だ。そのサバンナにも数十キロおきに水脈があるのだろう、緑も少しある村が現れる 。そこで休む度に水をかぶる、暑い。それはいいのだが、村人が総出で見物に来てあーだこーだウルさく、おまけにバイクをいじり回すのには閉口する。特に子供より、昼間はほとんど仕事もせず昼寝ばかりしているオヤジの方がうるさい。
 持ち主が目の前にいてもバイクをいじり回す( それも大人が )のは、世界でもインドとこのあたりからマリにかけてだけだ。物を所有する、という観念が無いのだろうか。今考えればこう思うが、この時は頭がカッカするだけであった。休憩もそこそこにコーラでも飲み、そそくさと退散するしかない。

     
サバンナの水飲み場とその近くの村にて

 走っていると、よく薪を路上で売っているのを見た。作物を作るのはメンドくさい。一番手っ取り早いのは木を切って来て、薪として売ることなのだ。それを見る度に悲しくなった。労働意欲が無いというのもそうだが、一度切った木はもう二度と生えて来ないのだ。木を切ることで砂漠化がどんどん進む。すると益々作物が出来なくなる。悪循環だ。
 更に悪いことに、この地の人々は、それが結局自分の首を絞めることになり、自分達や、地球自体さえ取り返しのつかなくなることを全く分かっていないのだ。アフリカの状況は悪くなっても良くなることは無いようだ。これを何とかするのが我々の役目なのだろうが、今は何も出来ない。今は旅を続け、現実を見ることしかないのだ。

     
  休憩した木陰に立っていた市場。カボチャ、イモがでかい!トマトがうまかった。

 夕方、700キロ走ってドゴンドウィッチという小さな街の、レストランの隣にテントを張ってこの日を終えた。
 翌日、300キロ走って午後、首都ニアメイに着いた。この街には珍しく街の中にキャンプ場がある。サハラを越えたツーリストのほとんどがここに集まることでも有名だ。ここにテントを張る。ここは広くてキレイなキャンプ場なのだがキャンプフィールド全体が砂で、サハラのように砂が深く、スタックしそうになるほどだった。
 暑くて体が動かず、水をかぶったり、例によってコーラの一気飲みをしたりして休み休み、一時間もかけてテントを張り、荷をほどいた。この時もバイクは少なく、他に3台だけ。車はドイツ、イギリス、フランスのナンバーを付けた4WDが10台ほど止まっている。軍払い下げの大型トラックを改造して来ているヨーロッパ人も多い。
 しばらくして街に出てみる。あてもなく、カメラをぶら下げてウロウロするのが好きで、街に着く度に街中を歩くのが楽しみになっている。狭い街は徒歩で、広い街はバイクで走り回り、目ぼしい所を見つけ、後で歩いて回ることにしている。特にマルシェは一番興味のある所で、当然のことながら国によって売ってある物が違うし、同じ国でも場所によって( これは部族の違いとも言えるだろうが )雰囲気がまるで違っていたりする。そこに売ってある物、量、値段、売る人と買う人の表情、それらによってその国の“ 顔 ”が見えてくるのだ。
 やはりマルシェに活気のない国は経済がガタガタだったりするし、外国人を見るとフッかけてきたり、物貰いの多い国は政治が機能しておらず、外国の援助が頼りだったりする。西アフリカのマルシェで共通して売っている外国製品( 雑貨は中国、台湾製がほとんどでバイクはフランス製プジョーのモペット、パキスタン製のホンダが多い。余談だが、これを作っているパキスタンの工場でバイクを修理させてもらったことがあり、なつかしかった )の値段で関税はもちろん、ひいてはその国の国民の経済状態まで想像出来るのだ。
 ちなみにここのマルシェは広くて、野菜、果物は豊富にあるものの外国製品は少なかった。それはいいのだが、どいつもこいつも思いっ切りフッかけて来ていやになった。しかも『 シノワー、シノワー 』とバカにするヤツがやたら多い。大人も子供も、だ。マルシェのすぐ前に中国の援助で造ったという立派なスタジアムがある。あんまりウルサイから、
「おめーら、バカにするけどあれ、中国に造ってもらったじゃないか」
と言ったら、
「ソリャ中国ガ勝手ニ造ッタ。オレハタノンデナイ」
と言いやがる。大金を使ってバカにされ続ける中国人がかわいそうになった。いや、東洋人は皆同じで、中国人も日本人も韓国人も全部“ シノワー”なのだ。
 首都のここでさえ中国と日本と韓国の違いを説明出来る人は50人に1人もいないだろう。ましてや国平均にしたらたぶん数百人に1人、いや、全国民で数百人しかいないのではないか。
では、なぜ東洋人をバカにするのか。白人をバカにしている黒人を見たことがない。思うに、アフリカの歴史の中で侵略して来た凶暴な白人の記憶が彼らのDNAの中に焼き付いており『逆らえば、ヘタすりゃ殺される』という潜在意識が残っているのではないか。逆に東洋人は最近になって現れた人種。しかも見かけがどうも貧弱だ。自分をたえず誰の上に置いておきたい、優越感を持っていたい、そういう人間の性みたいなものの対象が、ちょうど都合良く目の前に現れた中国人になったのだろう。
 もちろん、部族同士でもこのような差別される部族があるのだが我々外国人には外見からは部族の区別がつかず、一目で分かる対象としての中国人だけが目に付く。

     
ニアメイのマルシェ。巨大な唐辛子だがあんまり辛くない。
茶色のは、アメ玉代わりの木の樹脂。白いのも舐めてたが、どちらもマズイ!

 インドから西の途上国のほとんどが中国人をバカにする。『日本人だ!』と言えば態度を変えるヤツもいるが、教育が無く、情報も無い国のヤツらにはそんなことはどうでもいいことで、ヒマつぶしか反射的にか東洋人を見つけると『 シノワー、シノワー 』と言ってバカにしてしまうのだ。
 少なくとも自分の国より経済的に発展している国をバカにする国に進歩は無い。『シノワー、シノワー』と呼ばれる度に悲しくなった。しかも私の払った税金のいくらかはODA(政府開発援助)としてこの国に来ている、と思うと腹も立ってくる。ODAをバラまいている日本のお役人も一度独りで来てバカにされてみるといい。きっとODAを見直したくなるに違いない。それでなくても金だけアテにされて全く感謝されていないODA。どうせ金を出すんなら、そのうちの1割でもいいから援助される側、出す側がどんな国なのか、という啓豪に使ったらどうか。貰って当然、と思う国と、とにかく金を出せば世界に顔向けが出来る、と思っている国だけでは進歩がない。どちらの国の国民も不幸だ。 

 マルシェの外れに何とスーパーマーケットを見つけ、さっそく入ってみる。入り口には警備員が立っていて外国人はフリーパスだが現地人にはチェックがある。金持ち風の人しか入れてくれないのだ。ボロを着て、裸足の人なんて絶対入れてくれない。
 入ってみてまた驚いた。中はエアコンが効いていて商品はフランスのスーパーと全く変わらない物が置いてある。ただし値段は3割から5割は高いが、チーズからフランスパン、雑誌、新聞、フォアグラ、キャビアなんてものまである。ほとんどの物をフランスから空輸しているらしいが凄いもんだ。
 客はここに住むフランス人と金持ちのニジェール人。ここに買い物に来る人と、その人達のおこぼれに預けろうと店の周りにたむろしている子供の家庭との経済格差は甚だしい。たぶん中で売っているペットフードの缶詰一個の値段で十分に彼ら一家の一食分の食費になるだろう。その貧しさゆえに学校にも行けず、その結果産業も生活も向上しない。この現実を見てこの国の将来を思うと暗澹たる思いにならざるを得ない。この街にそんなことを真剣に考えている人も居たのだろうか、このキャンプにいる1週間の間に大学生のちょっとした暴動が起こった。
 だが、回りに理由を聞いたらそんな高尚な理由ではなく、授業料値上げ反対とか、学生の待遇改善とかそんな学生らしい理由らしく、詳しいことは分からなかったが結局2日もしないうちに収まり、大した騒ぎにはならなかった。その間外出自粛令が出ていたが、その合間を縫ってビザを取りに行ったりした。

      
ニアメイのマルシェ2。中は味噌みたいなモンでしょうか。なんと味の素まであった。

 さて、そのビザ取りの話。
 どの領事館も日本で想像する領事館とは程遠く、いずれも小さな民家を借りたような所で、職員も数人ずつしかおらず、とても領事館とは思えない建物で、探し出すだけで大変な所ばかりだった。
 まずは次に行く国マリ。小さなマルシェの片隅の、未補装の路地に面した二階建ての長屋のような土造りの建物の一角がそれだった。国旗も無く、小さな国名を書いた、表札のような小さなプレートが無ければとても領事館とは思えないような建物で、何人にも聞いてやっと見つけることが出来た。何と領事館の目の前でも場所を聞いた程場違いの建物だった。
 受け付けは1階の4畳程の広さのホコリっぽい土間!こんな所にパスポートを預けるのは不安だったが、ちゃんとその日の午後、ビザの付いたパスポートが返って来た。
 翌日はセネガル。ここは国力の違いに比例してマリよりはうーんと豪華で、中級程度の住宅街にあり、一戸建ての民家がそれだった。中に入るとやっぱり民家風で母と娘が住んでいて、彼女らが職員だった。なんかアヤシイ雰囲気。案の定、英語をしゃべる娘にビザ代をふっかけられた( たぶん )。ガイドブックに書いてある10倍以上なのだ。さんざん文句を言い、ねばると母親とゴチャゴチャ話していたが遂にその母親がメンドくさそうな顔をして、
「 ジャ、コレデドーダ!」
と半額になった。それで妥協してしまったのだけど、やっぱり何でもアリの所なのだ。その後、ダカールで聞いた話ではニセ私設領事館(もちろん申請料を騙し取るだけでビザは無効)もあるらしく、使えただけマシだったようだ(国境まで行って引き返した人も多いらしい)。

不思議の村


 1週間後、ニジェール川に沿って北上し、次の国、マリのガオへと向け出発した。街を出ると道はすぐにダートになり、200キロ程進むとアヨロという村に着いた。マリとの国境まであと50キロ程の所にある小さな村で、土作りの電気もない小さな家が20軒くらいニジェール川に沿ってひっそり並んでいた。ニアメイに住む日本人に聞いてぜひ寄ってみようと思っていた所で、ここで野生のカバを見ることが出来る、というのだ。

     
ピロックに乗り込む

 村に着き、川べりへ出るとさっそく客引きが集まってきた。いい値の三分の一に値切り、ピロックと呼ばれる丸太を刳り貫いたカヌーをチャーターする。
 川はかなり広く、中洲もいくつかある。ガイドに言わせると、マリ人はカバを食うので食われないようにここまで川を下ってきて住んでいるのだそうだ。だがしかし、この日は風が強く、砂嵐が近づいているそうで、こういう日はなかなか姿を現さないらしい。結局2時間ウロウロしてやっぱり会うことが出来なかった、残念。


砂嵐が近づいてきた。国境へ急ぐ。しかしこれがメインルートかよ!

 気を取り直して再び走り出す。すると本当に砂嵐が吹き始めた。国境に着き、出国手続きを始めると本格的に吹き始めた。手続きは意外な程あっさり終わりすぐに出発、先を急ぐ。
 2キロ程先にマリ側の建物が見えてきた。こちらではイミグレーションで少し待たされた。その後の税関の連中も外国人が珍しいのかやたらとバックの中を見たがり、
「 何カクレ!」
と言うが笑ってゴマかすともうそれ以上は言わなくなった。冗談ではないにせよ、ダメモトで言ったのかも知れない。
 そうこうしている間に砂嵐は益々激しくなり、視界が20メートルほどまでに落ちた。これではとても走れない。あまりここには居たくなかったがしょうがない。職員と目を合わせず、ひっそりと待って少し落ち着いたところで出発。ここからはマリだ。


ガオを目指す。標識にあるメナカはあの上温湯隆が死んだ所だ。



 止むか、と思った砂嵐がまた強くなり、何と雨まで吹きつけてきた。砂が益々柔らかくなり、止まる所が無く、濡れながらしばらく走り、ようやく固い砂の所でカッパを着て走り出すと、からかっているかのように急に嵐が止んだ。
 そう言えば以前イランの砂漠で黒い壁が近づいて来て、ヤバイ、と思ったとたん壁に突入。アッという間に真っ暗になり、砂と雨が混じった嵐が吹き荒れ、20分ほどでウソのようにもとの青空に戻ったことがあった。自然とは不思議なものだ。

  
ファファで会ったロバを世話する少年

 この日の夕方、電気も水道も店もなーんにも無いファファという小さな村に入った。何故かここでかなり場違いな高級バンガローを見つけ、行ってみる。
 部屋の料金はやたら高かったが、安い料金で庭にテントを張らしてくれることになったので泊まることにした。テントを張り、さっそく村の中を歩いてみる。ここは全く観光化されておらず、皆人なつこい。『シノワー』というヤツもおらず、何かホッとする。ワラぶきの土の家が20軒程の集落で、ロバがうろつき、ニワトリが走り回るのんびりした村だった 。緑も割と多く、川からは魚が多く捕れ、食べ物に関しては豊かなようだ。
 私の発音が悪いからか、現地語とのなまりが強くなっているフランス語のためかほとんど言葉は通じなかったが、初めて見たヘンな日本人に夕食の中身を見せてくれたり、笑顔で被写体になったりしてくれた。
 暗くなってホテルに帰ると学者風のドイツ人ファミリーが6人帰っていた。お互いこんな所で珍しい生物に出遇ったようで珍しかったのか、話が弾んだ。彼らはこのあたりの村で何か研究しているらしく、もう3カ月もここに居る、という。ビールと水割りをごちそうになりながら話が続く 。
 ホテルの庭のすぐ向こうはニジェール川。虫の声がうるさいくらいで遠くではカバの野太い声も聞こえる。ワニも居るらしい。夜は何と自家発電で電燈も点き、食事も都会風で外の生活との大きな違いもそうだが、街から遥か遠く離れていることを思うと何とも不思議な空間だった。

     
ファファのオッカサンと娘

 翌朝、また村を歩いた。歩いていたら学校を見つけ、覗いてみる。土で造った小さな教室の中には子供が10人くらい勉強していた。珍しいのが現れたのでさっそく見せ物になってしまい全校生徒(と言っても40人ほどだが)と先生が授業を中断して集まって来た。
 今までどんな街に行っても昼間から遊んでいる子供ばかり見てきたのでこんな小さな村なのに勉強している子供が大勢居るのが意外だった。文房具など何も無いのに小さな黒板を見ながら、ノート代わりの、更に小さな黒板とチョークを持って皆真剣な目をして勉強していた。今まで西アフリカを旅してきてぐうたらな大人達ばかり(特に男は依存心だけは強く、そのくせプライドも高い)を見てきて今の世代はもうダメだ、と感じていたので救われた思いがした。彼らが大人になる頃には少しはマトモな国になるだろう。『がんばって勉強せーよ、キミらだけが頼りだ』と、思わず心の中で呟いた。澄んだ輝く瞳が印象的だった。

  
ファファのガキどもと小学校の教室。これを見てキミは何を思うか?

 その日の午後、ガオに着いた。西アフリカでは割と大きな街だが閑散としていて活気が無く、昼間はほとんど人影が見えない。この日何も食っておらず、メシ屋を探すがなかなか見つからず、ようやく見つけた看板も無い店でナベを覗かせてもらったら内臓とかワケのわからない物を煮込んだ、見た目もニオイもスゴイものがいきなり目に入ってきて瞬時に食欲減退、40度を遥かに超す気温もありキモチ悪くなった。しかも物価がやたら高く、コーラはニアメイの3倍以上もする。ここに着くまでは泊まってもいいか、と思っていたが、居心地が悪そうな街なので、トンブアスキアという昔このあたりを支配していた王の墓だけを観光して先に進むことにした。
 アルジェリアあたりまでの予定ではこのまま北上して幻の都と呼ばれるトンブクトゥに行く予定だったのだが、ニアメイとかガオで聞いた話ではかなり砂が深い上にトンブクトゥから先の船(川を渡らなければ先へ進めない)の状況も分からない、と言う。トンブクトゥに寄ると約900キロの遠回りになる。幻の都にも行きたいがかなり大変そうだ。先は長いし・・・物価もガオよりずっと高いらしい。考えている間にバマコへ向かう道を走り出していた。本当に幻の都になってしまった。しようがない。今度来た時に行こう・・・。


針山のようなトンブアスキア。上まで登れる

 バマコへ向かう道路は、ガオから7キロほど離れた所で渡し舟に乗る。たった200メートルほどなのに何と1000セーファーフラン(600円弱)も取られた。たぶんメートルあたりの料金では世界1のフェリー代だろう(フッかけられたか?)。
 上陸すると今度はポリスに止められ、小屋に連れ込まれた。そして税金1000セーファーフラン払え、とスゴまれたのだ。
「 もうガオで払った!」
と言うと、
「 ガオハガオ、ココハココダ!」
とポリス。話にならない。こっちは意地でも払うつもりはない。払ってしまえば簡単なのだが、どうやらそういう素直な性格を持って生まれてこなかったらしい。
 しかも暑い上に2時間ほど前に同じ目に遭っていて頭の中はすでにオーバーヒートしている。その私の剣幕に驚いたのか、その太ったポリスに少しのスキが出来た。そのスキにパスポートをひったくり、バイクに跨りフル加速、一目散に走り出した。内心びびっていたが、追いかけて来なかったのでやっぱりアルバイトだったのだろう。

  
モニュメントバレーのような風景を走り、この日泊まったキャンプ場。バケツ1杯の濁った水が付いていた。

 

ドゴンの村

     
モプティの港

 サバンナの中を1日半かけ、750キロ程走り、翌日午後、早い時間にモプティという久しぶりに活気のある街に着いた。この街はニジェール川を行き来する船の積み出し港として発展した街で、今でも栄えている。日も高いのでそのままバイクで街を回ってみる。ここでニアメイ以来、久しぶりにたくさんの外国人(アフリカ人から見て)に会った。いろんな方面への中継地にもなっているのだ。
 マルシェを抜けた所でニジェール川を見下す洒落たレストランを見つけ、ここで昼メシを食うことにする。バイクを止めると子供達にワッと囲まれた。
「 オレガバイク見テテヤルカラ 」
と言う子供が何人か売り込みをかけてきた。ナマイキなガキも何人かいるが、足の悪い男の子が居て、目が合い、合図をして中に入る。こういう時は何も言わなくても分かるものだ。うるさいガキには笑ってゴマかす。
 中に入るとそこは吹き抜けでニジェール川を見渡せた。客は白人ツーリストのカップル一組と金持ちそうな地元の人が3人。メニューが出てきたが良く分からず、とりあえず魚を頼んだ。

     
これが美味いんだなあ。文中のメニューと宿近くの屋台。毎日食った。

 しばらくして出てきたのが、魚のフライと玉ねぎと豆をケチャップで煮たソースとフランスパン。これがやたら旨い。出てきた水も久しぶりに冷えているキレイな水で、腹に染み渡る。コーラの値段もガオの半額になった。ここからの眺めもいいし、風も涼しいし言うことナシ。ニアメイ以来ののんびり出来る街で気に入ってしまった。
 ひと休みした後、宿探しだ。バイクに戻るとまたガキどもが集まって来て案の定、
「 見テタカラ金クレ!」
とそれぞれ言い出した。
 こういうガキに限って何処かで遊んでて、私の姿を見て集まって来たヤツだ。ちゃんと見てたんだぞ。それでウルサイガキどもを押しのけ、ちゃんとずっと近くにいた、例の足の悪い子に少しの小づかいをあげた。
 すると、一瞬の間にそれをポケットにしまい込む。それと同時に悪ガキどもがそれを取ろうとして手を出す。子供でも生存競争が大変なんだなあ、と妙に感心してしまった。悪ガキの方が優勢そうだったので手や頭をハタき、助けてやったら出発する時、ニコッと笑ってくれた。

     
モプティ名所、土のモスク

 この日の宿は1階のレストランにバイクを入れていい、とオヤジが言う“バールマリ”という名のヨーロッパ人のバックパッカーがいっぱいいるボロ宿に決めた。
 部屋は4帖半程。中から藁が飛び出しているキッタナイベッドに閉まらない窓、カギのかからないドアに水シャワーとトイレが別の部屋で2000円ほど、ムチャクチャ高い。コストパフォーマンスでは今まで泊まった宿で最低。ただ、レストランはキタナイ割には旨く、バックパッカーの情報交換の場にもなっていて便利ではある。その観光客目当てか、売春婦のオネーチャンも昼間からそこに何人も出入りしていて何度も誘われたが、顔も体つきもスゴく、とても太刀打ち出来そうになく、辞退させていただいた・・・。


ドゴンの村へ!バオバブが1本だけ生えていたサバンナを走る

 翌日、永年の夢だったドコン族の村へ行くことにした。モプティからダートの道を東へ約70キロ、バンディヤガラという小さな街で正直そうな青年のガイドを雇い、プジョーのモペットに乗って先導するガイドに追って更に奥へ向かう。
 バオバブの林の中を縫うように続く細い道を30キロほど進むと小高い岩の丘の上に小さな村が見えてきて子供がいっぱい集まって来た。ここがジキボンボというドゴンの村で、ガイドの男は、
「今日はここに泊まり、明日更に奥の村へ歩いて行く」
と言う。
 ところが、この村に入る前に難問があった。道は村の手前で終わり、コケたらタンクがヘコむのは間違いない、トライアルのロックセクションのような、岩がゴロゴロした岩山を200メートル程登らないと村に入れないのだ。
 登るのを諦め、荷物を降ろしていると、
「村まで上げなきゃダメだ」
とガイドが言う。
 迷っている間に荷物を子供が担いで登り始めた。多少ビビるがやるしかないようだ。3人の手を借りてエイヤッと走り出す。冷や汗モノでやっと村に入ってホッとしたのも束の間、今度はパンク。あーあ。

  
村に上がる坂の下。そして、やっと上がれた!

 昔、この村をテレビのドキュメントで見た。マスクを被って踊る人々の姿が忘れられず、やって来た。今、本物が目の前にある。胸の高鳴りを抑えつつ村を回る。村は小さな小屋が30〜40軒、小さな広場に立つ大きなバオバブの木を中心に迷路のような路地が絡み合って成り立っていた。ひと回りしてきたらさっそく村長と村人に囲まれ、歓迎された。
 エンジンオイルの入っていた4リットルポリタンクに入っているドゴンビールを回し飲みしながら、私のつたないフランス語をガイドがドゴン語に訳し、話をした。日本のことを話してあげたけど、分かってもらえたかどうか・・・。

  
ドゴンのミスターTと隣村から来たオバハン

 ドゴンの村と言っても範囲が広く、北の方のドゴンの村はすっかり観光化され、ホテルもあるらしいがこの村には観光客はたまにしか来ないらしく、村人や子供も全く観光客ズレしておらずホッとする。だから、みんな気軽に接してくれたけど、突然来たヨソ者をどう思っていたのだろう。夜、食事を作ってもらいみんなで食った。電気のないここでは食後のお茶を飲んだら寝るしかない。暑いので小屋の屋根に登り寝ることにする。
 シュラフに入り、横になるとドゴンの世界に包まれた。そのうちここにもツアー客、ヘタすると日本のツアー客がやって来て荒らされる日が来るのだろうが、ずっとこのままであってほしい、と願わずにはいられなかった。この夜、太古から宇宙感を持っていたというドゴンの村の空は輝く星に覆い尽くされていた。

      
岩山ドゴンの村。広場の真ん中にはバオバブの木が1本。

 翌朝七時前、朝焼けと同時に何故か生まれ変わったような爽やかさで目が覚めた。朝メシは茶だけ。この村にはトイレというものが無いので村のすぐ下の岩場で下界を眺めながらしゃがむ。隣でヤギが遊んでいてケツを舐められたりしてやりにくい。
 9時前、約10キロ離れた隣村までハイキングに行く。ハイキングといっても気温40度を超える中、岩山を這い登って行く片道3時間のコースだ。ハアハア言いながら岩山を登り、登り切った所で休んでいたら目の前を弁当箱をぶら下げて涼しい顔をしたオヤジが通り過ぎて行った。突然のことで一瞬何が起こったか分からず、一拍置いてから驚いた。
 ガイドに聞いたら何と隣村から“通勤”しているらしい。再び驚き、恐くなった。何て強さだ!とても弱い都会人の我々には考えられない。だが、冷静になって考えたら驚くのは都会から来た観光客の勝手で、彼らにしたらこれが“日常”なのだ。
 そう言えばこの岩山に来る途中、自転車で追い越して行ったオヤジもいた。自転車でこの岩山を越えて行く、とでもいうのか?我々の常識を遥かに超えている。

     
こんなトコやこんなトコをひたすら進むとこんなトコへ出た。

 岩山を下りて2キロ程歩くと目的の村が見えてきた。村は巨大な岩山を後ろに控え、200メートル四方程を土の塀で囲われた中にあった。周りはサバンナ。この時(3月)でさえ暑かったのだから夏の激しさは想像を絶する。
 村の中に入るとガイドが知り合いらしく、村長が迎えてくれた。この村はほぼ自給自足で暮らしているらしく、ロバ、ヤギ、ニワトリを飼い、たまに来る観光客に民芸品を売って少しの現金を得ているのだそうだ。
 ひと休みした後、裏山に登ることになった。ここは先祖信仰の場で、代々の墓と祈りを捧げる所がある。こんな大切な場所に異郷人が立ち入ってもいいものか、と思ったが、村長が行っていい、と言うので見に行くことにする。ここでガイドが興味深いことを教えてくれた。ここには以前、墓とは別にピグミー族が住んでいたのだ、と言うのだ。

     
平地ドゴンの村長と記念写真。裏の岩山から見た村。

 ピグミーと言えばジャングルに住む身長の低い民、というイメージがあり、ここにいたとはちょっと意外だったが聞いてみたらやはりそのピグミーらしく、ジャングルを追われてはるばるここまで来たがやはりここでも馴染めず、しかも平地には住まわしてくれず、岩山のガケの下に住み着いた。その後、彼らはどうなったのか、今ジャングルで暮らしているピグミーと同じ部族なのか、というのは言葉の問題もあり良く分からなかったが、彼らが生活した跡というのは確かにあった。
 岩山から下の村を見ると、四角い塀で囲まれていて“迷路パズル”のように見える。広大な景色に見とれていたら遠くから3台の大型バイクが近づいて来るのに気が付いた。よーく見るとどうやらアセクレムで出会い、ニアメイでも遇った例のフランス人テネレ3台のチームらしい。バイクは村の前に止まり、すぐに彼らも登って来た。彼らも下で私を見つけ、手を振っている。そして岩山の上で再会を喜んだ。
 彼らはニアメイから真っ直ぐ南下しブルキナファソへ入国、そこから北上して来たらしい。彼らは観光化されている方の北のドゴンの村に泊まっていて、そこからここへ観光に来たのだった。しばらくの間、今までのルートとこれから先のルートの話をし、再びバマコでの再会を約束して別れた。

 夕方、ジキボンボ村に帰り、もう一泊して翌日、バンディヤガラで青年と別れてモプティへと引き返した。帰りのダートを90キロで気分良く飛ばす。なんか、気持ちを温かくさせてくれた旅だった。行って良かった。

     
宗岩山は聖なる所。墓や儀式に使う所があった。そこに居た長老。

不思議な島

 午後、再びバールマリにチェックインし、久しぶりのシャワーですっきりして街を歩く。この街の人々は男も女も皆働き者だ。こんなに忙しく働く人々を見るのは久しぶりのことで何となく嬉しくなってくる。
 夕方、宿で遇った青年のピロックで街の目の前を流れるニジェール川の中洲にある村の観光に行くことにした。この中洲はかなり広く、3つの部族の村があると言う。その村を青年のガイドで歩く。

     
ニジェール川の中州へ向かうピロックと中州の風景。

 どの村の人もいきなり来たワケの分からない外国人にイヤな顔もせず、相手をしてくれた。モプティはもちろん電気が来ているがこの島には来ていない。水道も無い。水は何に使う水でも全て川の水。全てが違う世界がここにあった。
 目の前に電気も水道も使える便利な暮らしがあるのにそれに背を向けてあえてここに住んでいる人達は何ともストレンジに見える。村を歩いていたら何と全裸で水浴びをしている若い娘達に出会ってハッとした。しかも、恥ずかしがるそぶりも見せなかったのには更に驚いた。カメラを向けるとさすがに恥ずかしそうな顔をしたが、笑っていて嫌がるそぶりはなかった。
 川一つ挟んだだけでタイムマシンで数十年もの時間差を越えてやって来たような気分になった。何にもない代わりに全てが自然のまま、ゆっくりと時が流れているように感じて不思議な空間だった。

     
中州で見かけた娘たち

 帰りは独りで港を歩いて帰った。港の見える場所に座り、荷物の積み降ろしを眺めた。雑貨、農産物、家畜、日干しの魚が見ている間にどんどん運ばれて来て飽きない。変わった物では遠くテネレ砂漠の、ビルマという所からはるばる三千キロも運ばれて来た板状の岩塩もあった。かなりの部分の物流かトラックに移ってしまったとはいえ、昔のままのこの風景は今でも立派に機能していて、街もまだまだ元気だった。

  

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