アフリカの風になって 4

 

地獄のジャングル

 

   2日後、次の目的地、首都バマコへ向かって走り出す。その日、620キロ走り夕方バマコに着いた。ところがニジェール川に架かる唯一の橋の大渋滞に巻き込まれ、ようやく市内に入った時にはもうすっかり暗くなっていた。
 そのバマコの街はホコリっぽく、舗装も悪く、車と人とがごった返していてインドの街のように走るだけで大変な所だった。そんなこんなでカンが狂ったのか、いつもはすんなりいく宿探しがうまくいかない。キャンプ場は聞いても分からず、宿の場所を聞くと答えはみんな同じで、
「 あそこへ行け!」
とこの国最高のフランス系ホテル“ソフィテル”をそっけなく指差した。ジョーダンじゃない。あそこは一泊150ドルはするのだ。夜はどんどん更けていく。ああ、こういう時の異郷の地は何て冷たいんだ・・・。
 そして、ようやくテントを張ることが出来たのはバマコに入って3時間以上も過ぎた夜の10時、結局20キロほど引き返した所にあった小さなホテルの庭の、マンゴーの大木の下だった。いやー疲れた。でもまあたまにはこんなこともあるさ、悪いことじゃない。こういう日のビールは身体がシビレるくらい旨いからね・・・。
 翌日、オイル交換、洗車を済ませて再び市内へ。まず“ソフィテル”へ行ってみる。ソフィテルグループのスポンサードでそのホテルに居る筈の、例のフランスチームを訪ねるためだった。話を聞いたフロントマンの顔に、小さい頃入れられたのだろう入れ墨が入っていてさすがにアフリカだ、と感心したりしたが、肝心の彼らはまだ来てない、と言う。結局この後も会えず、彼らとはドゴンの村が最後になった。お互い無事南アフリカまで行こう・・・。

     
洗面器ぶっかけメシ屋のオバハンとバイク屋。
全てヨーロッパ人がサハラを越えて売っていったモノだ。“ケンダ”が笑わしてくれる。

 バマコは人口こそニアメイより多いようだが中心部はニアメイの半分ほどの広さしか無く、三階建て以上の建物は“ソフィテル”以外ほとんど無い。ホコリっぽく、雑然としていてニアメイより更に田舎に見える。その上砂漠を越えてきた旅行者のほとんどがニアメイ↓ブルキナファソ↓コートジボアールというルートを取るので外国人が他の都市より少なく、首都というよりは田舎の大きな街、という感じだ。
 マルシェを歩く。品物は割と豊富にあるが外国製品はやはり高い。ちなみにパキスタンホンダ製GC125(日本の旧CB125)の新車が若者の年収の数倍もする。例によってフランススーパーマーケットもあるが、商品はニアメイより1割程高いようだ。
 そのかわりメシ屋は充実していてツーリストが少ない割にはツーリスト受けしそうなメシ屋(レストランというよりメシ屋、という感じ、中は屋台と大差ない)がいくつかあり、日本でいう“モーニングセット”みたいなものやピザなんていう洒落たものもあり、安く旨い。中でもマルシェの中にある屋台の“洗面器ブッカケメシ(私が命名した)”が最高だ。プラスチックの洗面器にタイ米のメシを入れ、その上にいくつかの鍋に煮込んだ野菜、魚、肉が入れてあり、好きな物をトッピングしてくれる。現地の人は手で食うが、外国人にはスプーンを付けてくれる。これがまた日本人の口に合い、旨く、量も多い。これで1杯約50円ほど。これを食うのがここでの日課になった。多い日には朝昼晩と3杯も食ったが、トッピングの種類が多く、飽きなかった。

  
干涸らびたいろんな動物を売っていた。ぎょええ!漢方とまじないに使うらしい

 その後宿探し。今の所は不便なので市内に移りたい。だが、やはり宿が少なく、ましてやバイクの止められる宿が無い。さんざん探し回り、結局マルシェで出会った少年に看板も出ていない民宿のような所に連れて行かれ、ようやく宿を決めることが出来た。宿を決めた後、昨日の宿に戻り、テントを畳んで引っ越した。
 ところがこの宿も相当なものでもちろん水しか出ず、しかもチョロチョロ。それはまだいいのだが、夜、蚊の襲撃が凄まじかった。隙間が多すぎて蚊取り線香は使いものにならず、結局暑い部屋の中にテントを張ってその中に潜り込むハメになった。蚊は防げたが暑くて寝られない夜が続くことになった。
 こんなことで寝不足のまま一日中街をうろつくことになるのだが、一番重要な仕事はこれから行くダカールルートの情報を探すことだった。何人に聞いても車でセネガルまで行った人はおらず、途中まで行った何人かと汽車で行った人から話が聞けた。共通していたのは相当にヒドイ道らしい、ということだけ。汽車に積んでじゃないと行けない、という男4人。北回りルートなら通れる、という男2人。大丈夫、行ける、という男ひとり。いやーまいった。ミシュランの地図によると北回りの道と、鉄道に沿って西へ向かう道との二つのルートが出ている。どうせ行くのだから1本ならどんなヒドイ道でも諦めも付くのに、2本あると考えてしまう。
 翌日の昼、いつもの屋台のブッかけメシを食っていたら北ルートを通ってダカールから来た、というヨーロッパ人の4WDトラックツアーの人達に遇った。聞けば、道はまあ良いものの一部通れない所があり、大きく迂回しなければならず、その迂回路が相当にひどく、深い川もありバイクじゃ無理なのでは、ということだった。
 よしっ、決めた!メシ以外この街は居心地も悪いし、早く出発しよう(余談だが、この何日か後、この街でクーデター騒ぎが起こったらしい)。早く、海が見たい。

  
オイル容器水筒を買い西へ、西へ。こんな洗濯板道路が一番走りにくい。

 赤茶色のホコリの舞うバマコの街に3日間滞在しただけで出発することにした。この前日、ギニアのビザを取ろうと大使館に行ったら思い切りふっかけられ(たぶん)、イビられ、遂に切れ、
「バカヤローふざけんじゃねー、てめーら、ビザなんていらねー!」
と日本語で思い切り怒鳴って帰って来てしまったので出発が一日早くなった。
 道端で売っていた、2リットル入りエンジンオイルのポリ容器に麻袋を縫い付けた水筒(麻袋を水で濡らしておくと気化熱で水が冷える。が、ちょっとオイル臭いのが難)にとっておきのジャスミン茶を入れ、昼前、街を出た。
  街から数キロの、バマコの街が一望出来る峠を越えたらすぐにダートになった。広いダートを順調に飛ばす。だが70キロほど走って妙な予感がして何人かに道を聞いたらやっぱりどうやら北回りのルートを走っているらしいことが判明。60キロ引き返し、何度も聞いて確かめた最初の予定ルートは幅10メートルほどのダートから別れ、ブッシュの中に消えている幅2メートルほどの道だった。
  ひえーっ、これが道かよ!不安が頭を過ぎる。でも決めたことじゃないか、鉄道に沿って走る道がそんなに悪いハズが無いじゃないか、と無理に自分に言い聞かせてブッシュに向かってスロットルを開けた。
 が、やはりそういうハズは、あった。深い轍、岩場、小麦粉のように細かい砂の所が順繰りに現れ、3速以上のギヤがめったに使えない道だったのだ。鉄道に沿っているとはいえ、そんなものは数十キロごとに線路を横切る時見えるだけ。おまけに時々道が二股に別れていて道を聞く人もいない。勘を頼りに進み、時おり通過する集落の名とミシュランの地図の地名を合わせてホッとするしかないという心細さ。北回りルートが正解だったのだろうか・・・。


ジャングルの村にて。もちろん電気も水道も店もなーんにも無い。たぶん私は宇宙人みたいに見えただろう。

 二股の行き止まりを何度か引き返したりしていたら日が暮れた。ブッシュの中から『ガオーッ』という音が聞こえてきてビビる。こんな所で野宿する訳にもいかないし、早く村に着くしかない。エンジンよ止まるな、コケるな、と心の中で叫びながら真っ暗なジャングルの中を必死で走った。
 夜8時過ぎ、ブッシュの間から頼りない自家発電らしき光の、ほんの少しの広がりが眼下に見えてきた。やった、街だ!どうやら峠を走っていたようで地図によると駅のあるキタ、という街らしい。人工の光がこれだけ心強く見えたことはなかった。
 街へ入ると酒場が目に止まり、冷えたコーラを一気飲みして生き返った。どうやらジャングルの中の野宿だけは避けられた、と思うと単なるコーラという飲み物の文明の味がハラに染み渡った。コーラを飲みながら、キタの酒場かあ、そう言えば遠い日本に昔、“キタの酒場”みたいな唄があったなあ、とひとりニヤつきながら酒場のオヤジに聞いたこの街唯一、という宿へ行ってみる。
 泊まれりゃ何でもいい、と思っていたら何とこれが場違いのホテルで、小さなプール(水は入ってなかったが)とディスコ(小さな土間の部屋に音楽がガンガン流れているだけだが)まである。
 とりあえず水シャワーを浴び、食事に行ったらもう閉まっていて、ディスコ(といっても20帖ほどの土間に妖しげなランプが灯り、古い音楽がでかいラジカセのフルボリュームで流れているだけだったが)に行ったらラムの串焼きがあり、それを何本か注文し、冷たいビールで流し込んだ。こうやって落ち着くと今日も一日いい日だったと感謝することが出来る。昼間がキツイほど夜は平穏な時間を送れるのだ。
 この夜、またもや蚊取り線香を炊いても何処からか入ってくる蚊に悩まされながら、何とか無事眠りに就くことが出来た。


キタのホテル

 翌朝、更に西へ向け出発。もっと道はヒドくなるだろうが行くしかない。実際村を出るとすぐにトライアルコースのような岩場が何カ所も現れ、気温は47度まで上がった。写真を撮る余裕もメシを食う余裕も無く、たった330キロ程の道のりに11時間もかけ、またもやヨレヨレになりながらやっとマリ最後の街で最後の駅のある、カイーという街に薄暗くなって着いた。疲れた。

 この街は昨日のキタより遥かに人口も多く、開けていて電気も自家発電ではない。もうここから先はジャングルは無く、車が普通に通る道になる。やっとサハラに次いで二つ目の難関を突破したということだ。
 駅前に、何とエアコン付きの高級ホテルが一軒あった。高かったので、『安いホテルはないか』と聞いたらすぐ隣に看板も出ていないボロ宿があった。丸い建物で、放射状に仕切って部屋になっていて刑務所のようだ。アフリカの田舎の安宿だからもちろんボロベッドだけ。安いことはいいのだが暑いのには閉口した。夕方は風があり涼かったのだが暗くなったらピタリと止んだ。
 部屋の中ではとても眠れず、マットレスを屋上に上げて水をかぶってそこで寝た。ビールは旨く、星空は美しかったがなかなか寝つくことが出来なかった。

     
カイーの市場、気温は40度を遙かに超えていた。働いているのはほとんど女だけ。

 翌日、使い切ったパワーを回復させるためこの小さな街でのんびりすることにした。朝涼しいうちに起き、駅前の屋台で朝食を取る。何とここではトーストにオムレツ、ミルクティという洒落た物が出て(もちろんトーストは地元の少々堅いヤツ、紅茶はティパック、コーヒーだとネスカフェだが)これがまたなかなか旨い。
  その後マルシェを覗く。この街はマリではバマコ以西最大の街で、輸入品こそ少ないものの食料品は豊富にあり活気がある。そして働いているのはオバサンが多く、ここでもやはりオヤジどもはグウタラのようだ。
 フーッ、暑い!歩き疲れるとマルシェの木蔭に座り、人々を眺めた。いや、いつもそう思うのだがこの場合反対に見られている、と言うべきだ。こちとら珍しい外人。しかもめったに見ないアジア人である。座っていると見せ物になってしまっている。いろいろ話しかけられ面白いが、周りを囲まれると風が届かず、暑くてしょうがない。ガイドブックによるとこのあたりは世界でも有数の暑い所らしく、日が登るにつれどんどん気温が上昇し、3月というのに昼過ぎには気温が50度近くまで上がった。
 一度動きを止めるともう動けない。宿に帰り、水をかぶってビールを飲みながら木蔭でしばらくボーッとする。このあたりでは暑い昼間はこうやっているのが正解のようだ。何せバイクを日陰に置いておかないとエンジンをかけていなくても熱くてエンジンに触れなくなるのだ。
 翌朝、ウワサを聞いてか旅行者から買った、というファラオ(600CCのホンダ製オフロード車)にノーヘル、ぞうりで乗る男が宿にやって来た。そして私を連れ出しバイクを見せ、
「 オマエ日本人、コレ日本ノバイク、修理デキルダロウ 」
と言い出した。
 見ると、タペット、カムチェーン、ミッション、至る所からガラガラという凄い音が出ていてオイル洩れもヒドい。
「 道具も無いし、部品も無いからどうしようも無いよ 」
と言うと残念そうに帰って行ったが乗り方が相当に荒く、あれじゃしょうがない、と思ってしまった。彼だけじゃなく、アフリカの人達は機械との付き合い方がヘタで、コキ使い過ぎてすぐ壊してしまう。機械との付き合いの歴史が短い上に恐ろしく高価なはずなのに自分の車に愛情を持つ、という意識が全く無いからしかたがない、と言えばそれまでだがもう少し何とかならないものか。
 しかし驚いたことに彼はあのカッコウであのバイクに乗り、バマコへ三度も行ったことがある、と言った。スゴイというか命知らずというか、うーん、何度考えても驚くしかない。そうこうしているうち、何となくもう一泊することになってしまった。バイクの整備をしてまたマルシェを覗く。のどかだ。こうやってボーッとして過ごすのもいいものだが2日もいたら先へ進みたくなった。やはりアフリカ人にはなれそうにない。

  
セネガルへの道


ダカールへ

 翌日の早朝、涼しいうちに出発する。約80キロでセネガルとの国境に出た。税関の役人が遊びに行ってて、さんざん待たされたものの無事マリ出国。セネガル側では西アフリカ1豊か、という触れ込みの国(ガイドブックによると)の税関のヤツがワイロを要求してきたのは意外だったが、無視して無事入国。やっと楽になった、と思ったら大マチガイで、そこから最初の街までの230キロ程は、道幅こそ広いもののフルボトム続出の大穴ボコの所と洗濯板道路が繰り返し続き、平均時速30キロがやっとの道だったのだ。午後3時前、タンバクンダというかなり大きな街に入って、ようやく4日ぶりの舗装道路に出た。
 この街で銀行に行き、両替をして遅い昼メシを食った。ここで何と氷水が出た。一気に3杯ほど飲み干す。全身に水分がプチプチと音を立てて染み渡る、ような気がした。水がこの世で一番旨い飲み物だということをこの時初めて知った。この日は、更に120キロ程走り、小さな村の電話局の庭にテントを張って一日を終えた。
 その翌日も朝からひたすら走る。午後になってバオバブの木が見えてきた。更に進むとそれが延々と連なる林になった。周りは全てバオバブ。その林の中を道路が貫いている。そんな林が20キロ以上も続くことになった。
 不思議なことにそのバオバブの林を走っていたら、なつかしい海の香りを感じてきた。1カ月以上にもなった砂漠の暮らしは海から遥か30キロ以上離れた内陸からでも海の存在を感じることが出来る感覚を与えてくれていたらしい。ダカールは目の前だ。胸が高鳴る。


世界最大?のバオバブの林

 そして一時間後、遂にダカールに入った。やった!市内を走っていると時々手を振ってくれる人がいたりして、もうほとんどパリダカ入賞パレード(そんなのあったっけ)の気分。あの、クソみたいな道を抜けて来た甲斐があったってもんだ。約40日ぶりの海も眩しい。パリを出発してから1万5500キロ、85日目のことだった。
 ダカールの海岸に座り、しばらく大西洋を眺めながら感慨にふける。モロッコ以来約2カ月ぶりの大西洋。いろいろあったけど、やっと無事にまた見ることが出来た。“ひとりパリダカ”の、ひとりだけのゴールだ。この海を見ることが出来たパリダカ出場者もきっと同じ気分なのだろう。ホントならここで祝杯をあげるところだろうけど、ラリーと違ってこの旅はまだ終わっちゃいない。むしろこの先のジャングルの方が砂漠より厳しいかも知れないのだ。そう考え出したら現実に戻った。まずは腹ごしらえと宿探しだ。そう言えば昨日の夜から何も食っていない。
 今まで通ってきた国と比べると街の綺麗さには格段の差がある。高層ビルが立ち並び、街角にはフランスのそれのようなカフェがあり、白人のビジネスマンがスーツ姿で歩いている。まるでヨーロッパの何処かの都市に居るようだし、ホコリも舞っていない。その上ヤギやロバが街中をウロウロしてない首都はチュニジア以来久しぶりのことだ。
 日本大使館を探しているとその近くでハンバーガー屋を見つけた。何とスタイル、味がヨーロッパのそれと同じでこれまた久しぶりの都会の味だった。旨い。そういえば日本大使館もチュニス以来で心待ちにしていた手紙を受け取ることが出来た。ついでにパスポートの増刷も済ませ、宿探しを始める。ところがところが、この街には宿が無い!まあホテルが無い訳はないのだが、安い宿がないのだ。ベルボーイのいるような高級ホテルは多いが近寄り難いし安い宿でさえ3500円もする。余計な出費が多かったのでもうゼイタクに使う訳にはいかなくなっていた。捜し回ってやっと街から10キロほど離れた所に900円程の安宿を見つけたのだが、コレがまたやたらキタナく、しかも何とセネガル風ラブホテルだったのだ!


やった!これがダカールの海だ!

 翌日からビザ取りに駆け回る。たまたまギニアビサウとギニア大使館は近くにあったものの手続きがやたらメンドウで、特にギニアはバマコのようにビザ代こそフッかけてはこなかったが、高圧的な態度でさんざん待たされた挙げ句、レターを持って来い、と言い出しやがった。
 レターとは日本大使館が発行し、『いついつ、こうこういうヤツが貴国へまいります。身分は当大使館が保証します。ヨロシク』 という正式の公文書のことだ。
 レターを要求されたのは中東のヨルダンに次いで2カ国目。前記の内容を保証したのがパスポートである筈なのに、それでは不足らしい。国と地元の大使館がダブルで保証しろ、と言うことだ。
 フザケている。こういうことはその国に対して大きな力がある国が要求することで、ましてや日本の援助無しには何も出来ないような、ギニアみたいなチンケな国がやることでは無い。だいたい援助を山程貰っておきながら、その国の観光客からもビザ代と称して金を取る(アフリカに、日本人はビザ不要、という国は6カ国しか無い、特にタンザニア以北ではモロッコとチュニジアのみだ)などずうずうしいにも程がある。本当なら『バカヤロー、そんな傲慢な国に行ってやるかい!』と言いたいところだが、ギニアを通らないと先へ進めない。
 しかたなくそのことを日本大使館に話しに行く。しばし受け付け氏とやり取りがあった後、「大使と相談します」と言われ、結論は翌日、ということになったが結局レターは出ることになった。
 これでビザが取れるので喜ばないといけないことなのだが、ギニアのハッタリに負けたことになる。悲しくなった。どうして強く抗議しないのだろう。大使館同士でダメなら外務省を通してギニア政府に言ったらどうか。なんなら『援助引き揚げるゾ』くらい言えないのか。だから益々図に乗り、日本は金だけ取られ、バカにされる。フランスあたりならどうか、と考えた。少なくともアフリカでフランス人がビザを必要とする国はほとんど無い。ましてや西アフリカでは皆無なのだ。
 それを大使館に言うと相互免除協定(お互いの国民同士はビザが要らないようにしましょう、という決まり)があるので、と言うがそういうのはフランスと日本のように対等に付き合える国同士の話である。ちなみに、西アフリカの人達がフランスへ行く時はビザがいるのだ。

     
ゴレ島と船着き場

 この二つとコートジボアールのビザを取るのに4日もかかってしまった。この街は物価も高く、居心地も良くないので早く出たいのだがしょうがない。待ち時間で市内めぐり、博物館、奴隷積み出し基地だったゴレ島の観光をした。
 そのゴレ島はダカールの港から観光船で30分弱行った沖合にある、一周2キロほどの小さな島で、島全体が史跡になっている。桟橋の近くに見える、石造りの真っ白な要塞が博物館になっていて、船から降りた後さっそく中に入ってみた。最初に案内されたのは半地下になっている一階の奴隷置き場。四方を石で囲まれた部屋がいくつかあり、最大のものは30畳程の広さ。もちろん、トイレ、ベッドなどというものは無く、明かり取りの小さな穴があるだけだ。
 こんな中に手足を鎖で繋がれた人間が船が来るまでの間押し込まれていたのだ。人間はどこまでも非情になれるらしい。次に2階へ案内される。司令官の立派な部屋があるのは当然だが、驚愕したのは教会があったこと。床の下は地獄のここで、白人(スペイン人)の神父が『神の御加護を・・・』などと言っていたのかと思うと胸クソが悪くなった。
 当時のヤツらに言わせると、キリスト教徒以外は人間では無く、ましてや外見が全く違う黒人は家畜なのだ。だから家畜をどうしようと何が悪いの?となるから、家畜置き場の上に聖なる教会を造ることに何の抵抗も無かったのだろう。このスペイン人(後にはポルトガル、イギリス、その他ほとんどのヨーロッパ各国、及びアメリカも参加してアフリカをしゃぶり尽くした)の横暴、厚顔さがアフリカや中南米の未来を破壊し、現在までその傷を引きずらせているのだ。
 出口の所に歌手のハリー・ベラフォンテの写真があり、『彼が彼のルーツを探した結果、先祖はここからアメリカへ積み出された、ということを発見した』と書いてあった。
 20何年か前、アメリカでルーツ(根っこという意味)というテレビドラマが大ヒットした。主人公のアメリカ人の黒人が自分の先祖が来た道を辿る、という物語だったが(日本でも放映された)それ以来、自分のルーツ探しがブームになった。彼もそうしてここへやって来たのだろうが、これを見て何を思ったのか、その胸中は我々日本人に分かる由も無い。暗くなった気持ちと真っ青な海のコントラストが妙に心の中に残った1日であった。
 観光は一日で終わり、街のカフェ回りと、スーパーマーケットのひやかしが日課になっていたが、そこでタイ製ラーメンを見つけ、ホテルの部屋で作って食った。ラーメンなんて何カ月ぶりだろう。あーあ、やっぱ日本人だ。うめーや。
 以外なことだと思うだろうが、ダカールは寒い。昼間でもTシャツ一枚じゃツライし、夜は厚い方のジャケットを着ていたほどで、当然ボロ宿のシャワーは水しか出ず、気合いを入れてじゃないと体さえ洗えない。こうなってくると数日前までの、あのクソ暑さがなつかしくなった。きっと海のせいなのだろうがビールもあの時の旨さは、すでに無い。

 

国境越えの新記録

   
ジョアル・ファデウトから望む夕日。

 5日目、ねばってこの日発行にしてもらったコートジボアールのビザを貰い、昼過ぎ出発。再びバオバブの林を抜け南下する。この日はガイドブックで見つけて興味を持った、ジョアル・ファディウトというダカールから120キロほど走った小さな漁村へ行くことにしていた。何とここは古代から捨て続けてきた貝で出来た島の上に村がある、というのだ。
 漁村を抜け、その島へと続く木製の橋のたもとに雰囲気のいいバンガローがあった。値段も安かったのでここに荷物を解き、さっそく歩いて島へ渡ってみる。この国のほとんどがイスラム教徒であるのにここの島民だけは全員クリスチャンなのだという。
 狭く、百メートルくらいある橋を渡り島に入るとイスラム教徒でない証拠にブタがうじゃうじゃいた(イスラムではブタは御法度なのだ)。そして本当に何処へ行っても地面は全て貝ガラだらけだった。不思議なものだ。島の中を歩いてもイスラム社会とは雰囲気が全く違う。何と言えばいいのだろう、明るくて開放的なのだ。女性も写真を撮らしてくれるし、笑顔も返ってくる。普通だと必ず何人かはいるうるさいオヤジやガキもいない。宗教のせいなのか、ま、それはともかく何となく居心地もいいし、魚も旨いのでもう一泊してのんびりすることにした。

     
島への1本橋。海の中の小屋は漁用。右はトイレだ。

     
美形で目の綺麗なコが多かった


     

近くの漁師の村、干物を造っていた。左はタバコ屋。この辺りはイスラム教。

 翌々日、南へ向け出発。5時間ほどでガンビアとの国境に出た。出国は簡単。ところがガンビア側のイミグレーションのヤツが『ダカールでビザを取って来い』と言い出しやがったのだ。
「 国境で取れるハズだ 」
とガーガー文句を言うと、
「 ジャ4000セーファーフラン出セ 」
と言い出した。またか、と思ったが、結局2000払って入国。クソッ、こんなヤツばかりだ。
 川を渡るフェリーに乗って上陸した所が首都のバンジュルだった。アフリカ最小の国だそうで、首都とは言え日本の小さな街ほどもなく、何と街中のほとんどが未舗装で舗装してあっても穴ボコだらけだった。
 ホコリが舞い、店もほとんど無い。世界1みすぼらしい首都だ。ここには宿もなく、30キロほど離れたバカオという海岸のリゾートへ行くことにした。


バンジュルのメインストリートがこれだ

 バカオに着いて驚いた。ここはヨーロッパ人の観光客が多く来るらしく、首都からは想像も出来ない小綺麗なホテルや気の効いたみやげ物屋、レストランが並んでいたのだ。この国とガーナだけが西アフリカで英語を公用語とする国で、観光客もイギリス人が多いようだった。そして、ここで面白いことを発見した。イギリス系の国は食い物がマズイ、ということだ。特にパンはマズく、堅い四角い食パン風のものしかない。旧フランスの植民地の国だと、超イナカの国 “ マリ ” でさえ、大きな街に行けばフランスパンやクロワッサンが手に入るのだ。さすが食の国フランス。イギリス人は “ 食 ” に執着していなかったようだ。
 さて、この街もなかなか居心地が良く、物価もダカールよりかなり安いし、食事も海が近く魚介類が豊富で観光地ということもあり、イギリス系の国としては例外的に旨い。本当はもっと居たかったのだがイミグレーションのヤツがビザを2日しかくれなかったので、やむなく2泊しただけで出発。南下することになった。程なく国境に着いたが、出国の時またイチャモンを付けられ1000セーファーフラン取られた。クソッ、ガンビアの役人はキライだっ!で、一路ギニアビサウへと向かう。

  
バカオの漁村、船の形が変わっている。

 ガンビアを抜けると再びセネガルになる。このあたりはカザマンス地方と呼ばれ、最近独立運動に伴う暴動が起こり治安が悪く、つい最近も殺し合いがあったばかりだそうで、しっかり日本大使館にオドされていた所だ。外国人には退避勧告が出ていて街へ入っても観光客は見あたらない(後でよく考えたら観光をするような所ではなかった)。それでちょっと気後れしてしまい、ここを一気に抜けてギニアビサウに入国するべく、休憩もそこそこに出発した。そして、無事セネガル出国。ギニアビサウ入国が終わり、走り出したら暗くなった。
 首都ビサウへ向かう途中、チェックポイントで止められ、『荷物を全部開けて見せろ』と言うポリスとひともんちゃく。そんなのに付き合ってられるかい、とスキを見て逃げ出し、8時、ようやくビサウに着いた。
 宿を探し始めるが宿がない。何とこの街にはホテルが3軒しかないという。その上一番安いホテルでも9500セーファーフランもするのだ。テントを張る所はないしどうしようかと考えていたところに、バックパッカーのドイツ青年がやってきた。彼とツインの部屋をシェアすることで話はまとまり、荷物を解いた。フーッ疲れた。
 この日、走行距離は370キロしか走ってないものの3カ国を走り、2回国境を越えた。1日でカルネ(バイクを無税で持ち込むための書類、1カ国で1ぺージ使う)を3枚使ったことになる。新記録だ。

 

不思議の国、ギニアビサウ

 ギニアビサウの首都、ビサウは隣のガンビアの首都バンジュルよりマシなものの今まで通過した60数カ国の中でビサウに次いで2番目に小さくて閑散とした首都だった。街の中の道路はほとんど舗装してあり、バンジュルほどホコリっぽくなく、建物も何となくアカ抜けてはいるがこの街、いやこの国には大きな問題と不思議があった。
 そのひとつは、前にも書いたように宿がないこと。この国は全く観光化されておらず、外国人の旅行者がほとんどいないからなのか結局安宿は探し出せなかった。3軒あるホテルの中の“グランドホテル”という安い方でもシャワー、クーラー付き、トイレ無しで5000円近くもする。それにレストランにはビールはあったものの食事といえばいつもまずいスパゲッティーが1種類しかなかった。

     
グランドホテルとこの国唯一のしゃれたカフェ。だが首都のメインストリートがこれだ!

 その二、何とガソリンがない!
 首都だというのに、ガソリンスタンドがたったの2軒しか無く(たぶん世界1ガソリンスタンドの少ない首都だろう)いつも売り切れだった。まさかガソリンがないとは思ってもいなかったのでガンビアで満タンにしておらず、このままではとてもギニアまで保ちそうにもない。
 人に聞いてやっと闇ガソリン屋を探し出し、定価の倍の値段で砂、ゴミがいっぱい入ったガソリンを10リットル( 1リットル約160円もした!)入れた。

 その三、金がない。
 いやいや、金がない国なんてある訳はないが、コインは本当にない。しかもお札が100、500、1000、5000ギニアビサウペソのたった4種類しかないのだ( 厳密にいうと1万ペソというお札があるらしいのだが、一度も見たことがない )。日本でいうと、50円札、100、500、1000円札しかないようなもので、おもちゃの銀行よりひどい。
 この国唯一のスーパーに行くと、ちゃんと1250ペソというような商品もあって、当然これを一個買う時は釣りが無く、値段は切り上げになるのだが、よくこんなドンブリ勘定の通貨で国の経済が成り立っていくものだ、と不思議でたまらなかった。ま、成り立っていないから経済がガタガタで闇ガソリンというのが存在する、ともいえるのだが・・・。ともかく、世界1お金の種類が少ない国、であることは間違いないようだ。

  
100ペソが写っていないが、これだけ?の金と市場。

 さて前記の闇ガソリン屋。
 住宅街にある小さなガレージみたいな小屋がその“ 店 ”で、何処から持ってきたのかドラム缶が2本置いてあり、その中身のガソリンをビニールホースで一度タライみたいなヤツに移し、その前に座った親方らしいオヤジが1リットルのオイル缶をカットした“ 升 ”で1リットルずつ、まるで米でも扱うように計り売りをしていた。そのオヤジの周りには見習いらしき少年が数人、ドラム缶を傾けたり、ジョウゴやホースを持ったりして働いている。その姿自体はけっこう笑える光景なのだが、小屋の中はガソリンの臭いで充満していてポリタンクを持ったオヤジ連中が周りをぐるっと囲んでガーガー言い合っていてとても買えそうな雰囲気じゃない。
 そこに、タバコをくわえたオヤジが入ってきてびっくりして小屋を飛び出し、バイクを小屋から離れた所に移動させた。どういう神経しているんだ!と驚きながらも、『さーてどーしたもんか』と途方に暮れていたら先ほどの危ないオヤジが出て来て私に興味を持ったらしく話しかけてきた。
 結局このオヤジの、
「 オーイ、コイツ日本カラバイクで来タンダッテヨ。10リットルグライ分ケテヤレヨ!」
というひと声( たぶんこう言ったと思う )で買えることになった。ポリタンクからバイクにガソリンを移す時もタバコをくわえたままの危ないオヤジだったけど、感謝、感謝。

 前にホテルのレストランのことを書いたが、街で一軒だけ、不思議だけどマトモなレストランを見つけた。昼は2時間、夜は3時間位だけしか営業していないがコースで出てくる。メニューは1つだけしか無く、値段は320円ほど。メニューが運ばれてきて驚いた。何とそのコースの中に“イカジャガ”があったのだ。外見が日本のそれと同じで驚いたら何と味まで同じでまたまた驚いた。それを一緒に食いに行った同室のドイツ人青年に言ったら、
「 うん、旨い 」
と外交辞令で言ってはくれたが、結局彼の分の半分は私が食うことになった。この料理はたぶん旧宗主国、ポルトガルの影響なのだろう。


後ろに見えるのは大統領官邸(たぶん)ここがビサウの中心だ

 

逃げろや逃げろ


 ビサウに入って3日目の朝、次の国ギニアに向け出発することにした。地図を見ていたら、ふとギニアへの道は来た道を数10キロ引き返さなければいけないことに気が付いた。そしてよく考えたらそこには来る時強行突破した検問所がある。ゲッ、ヤバイ。でも他に道はなく、行くしか無いのだ。この間のヤツがいないことを祈りつつ検問所へと進む。そしていよいよ検問所。おそるおそる近づいたら、ガーン!、ヤツは居た!そしてまた悪いことにバイクを止めて降りたとたん、目が合ってしまったのだ。ヘビに睨まれたカエル、しょうがない。腹を決めて覚えていないことを祈りつつ、無理して笑顔を作って前に出ると、ヤツはしっかり覚えていた。
「 オマエはコノアイダ逃ゲタヤツダナ!」
あ〜あ、天は私を見放してしまったようだ。パスポートを取り上げられる。そして今度はヘビの生殺し。延々待たされることになった。不安・・・。どうなるのやらいろいろ想像してみる。この国には日本大使館が無いから大変だぞ、とか、ワイロいくらで妥協するか、とか考えているうち、ふとヤツの行動には一定のパターンがあり、そこにスキがあることを発見した。
 そのオヤジ、昼間は忙しいらしく時々いなくなる。どうやら天はまだ見放してないようだ。やるしかない。オヤジがいない間に掘っ建て小屋の事務所に行き、あーだこーだと言ってまんまとパスポートを取り返すことが出来た。やった!そのまま後ろも見ず走り出す。逃げろや逃げろだ。

  
大ワダチ道路の始まりには木が倒れていた。これで国と国を繋ぐメインルートかよ!

 ギニアビサウからギニアへと続く唯一の(たぶん)ルートは、とても幹線道路とは思えない、ほとんど冗談のような道だった。それは日本の田舎の町道のような細い舗装道路を、先ほどの検問所から120キロ程走った道路脇にあり、小さな集落の軒先を掠めるようにジャングルへと消えているアゼ道のような道がそのとんでもないルートへの入り口だったのだ。
 それでも村を抜けるとマトモ(?)なダートになり、ホッとしたのも束の間、すぐにギリギリ車1台分の幅しかないデコボコ道に替わり、それを20キロほど走ると遂に今まで走ったことがないクソダートになった。両脇は深いジャングル。土の質が急に変わり、グレーのパウダー状の土になった。更に進むと益々道幅が狭くなり、本当にこの道かいな?と不安が増してくるが行くしか無い。道を聞く人もおらず、しかたなくそのまま進んでいくと轍も徐々に深くなってゆき、遂に両脇のバックが轍にハマッてストップしてしまった。クソッ。
 轍の幅は50〜60センチ、深さは40センチ程。道と言うより細い用水路が二本通っているようなものなのだ。こうなったら真ん中のカマボコ状に盛り上がった幅40センチほどの所を走るしかない。本当に幹線道路なのだろうか、いやこの道しかなかった、と自問自答しながらこの途中停車不可能な、ほとんど教習所の一本橋のような道を20数キロ走り続けたら急にジャングルが開け、小さな集落に出た。やった、国境だ。やっぱりこの道が幹線道路だったのだ!あの道を引き返さなくてもいい、と思うとホッとして力が抜けた。

 

ギニアへの道


国境の売店

 掘っ建て小屋のイミグレーションといくつかの屋台があるだけの、電気も来てないような小さな集落が国境だった。先ほどのチェックポストからの連絡が入っていないことを祈りつつ、太ったギョロ目のオヤジの顔を伺いながらそおーっとパスポートを出すとすんなりスタンプをくれた。やった!
 パスポートを貰うとオヤジの気が変わらないうちにとっとと出発する。村外れのチェックポストを過ぎると再びジャングルになった。少し走るとトラックが道幅いっぱいに立ち往生しているのが目に入った。追い越すのは不可能。こいつがあの轍の犯人か、ようこんなんで来るわい!と感心しながらも一向に動く気配が無い。どうやらスタックしているらしいが人影が見えない。しょうがないのでブッシュをかき分け、小さな木を折りながらバイクを押し進め、ようやくトラックをパスしたら国境の川に出た。もちろん橋は無く、鉄の大きな箱に小さなエンジンが付いていて、それでワイヤーをたぐって対岸へと進む渡し舟が動いていた。大きさはトラックちょうど1台半分。3台のトラックが待っていて、川岸まで出たら先頭のトラックのオヤジが、
「 オマエ先ニ乗レ 」
と言う。そこに乗るには一度ヒザくらいの深さまで川に入り、そこに斜めに下ろされている2メートルくらいの鉄板を、エイヤッと登らなければならない。コケたり、落ちたり、滑ったりしたらアウトだ。水の抵抗がキツそうなので荷物を降ろそうとしていたらまたトラックのオヤジが、
「 早クシロ!」
と怒鳴る。こうなりゃしようがない。ハラを決めて気合い一発、そのまま川へ入り、一気に登った。冷や汗モノだったが無事成功。ホッとしたのも束の間、舟は10分ほどで対岸のギニアに着き、再び同じような所を今度は下りなければならなくなった。何とかコケずに上陸するとそこにイミグレーションがあった。ただし、税関は何と80キロ程先の街にあるという。休みもせず再びジャングルの中へと走り出し、その後3回同じような渡し舟に乗ってようやくこの日の夕方、その最初の街“ ボケ ”に入った。

     
これで着岸しているんだから困ったもんだ(左)。対岸はギニアのイミグレだ。そしてまた渡しに乗る。

 この村は、電気は来ているものの観光客はおらず、ホテルの看板は一枚も見あたらない。人に聞くしか無いが、平気でウソを教えるヤツばかりなのだった。どうなってるんだ、この国のヤツは!
 ここに来るまでも随分とウソを教えられ、時間をムダにしたが特にここはひどい。ウソで何度もカラ振りが続き、ようやく宿を探し出したもののオヤジにフッかけられ、こっちも意地になって値切り、やっとお互い妥協して暗くなってようやく荷物を降ろすことが出来た。
 平屋の丸い不思議な家で、部屋は四つ。部屋は十帖くらいあるがコンクリート剥き出しで古いパイプベッドと小さなテーブルがあるだけ。窓にはガラスは無く、木の扉が付いているだけだ。もちろんシャワーは水だけ。夜は暗い裸電球一個だけでかなりわびしいが、野宿よりはうーんとマシだ。
 一息入れた後、さて困った。メシ屋がないのだ。オヤジに聞いたらあっさり、
「 ナイ!」
と言われてしまった。しかたなく持っていたチョコとオレンジを部屋でかじっているとオヤジがやって来て、
「 クエ 」
とメシと肉ダンゴスープを置いていった。
 意地悪そうに見えたオヤジもいい所があるもんだ、と思ったが、悪く考えれば持ってきた時間からして家族で食った残りかも知れず、また当然後で金を取られたが、それでもこの時はありがたかった。食後、まあこんな所にある訳が無い、と思いながらも、
「 ビールある?」
と聞いたら何と“バドワイザー”が出て来た。こんな国の、こんな田舎にバドワイザーがあるとは思わなかった。アフリカに入って初めてアメリカのビールを見た。不思議だったがやはり腹に染み渡った。


ボケの宿

 翌朝、税関を捜し出し、時間はかかったものの無事カルネのスタンプを貰い、この街唯一の銀行で両替を済ませて出発。街を出ると道はすぐにダートになった。そして進むにつれ道は益々悪くなり、大穴ボコと洗濯板だらけの道になった。ところが、150キロを過ぎた所で突然あたりが開け、場違いな程広い道路を造成している現場に出た。後で聞いた話だとこのあたりの鉱山開発のための道路らしい。この時、まだ完全に出来上がっておらず、快適そうな道を横目で見ながら工事用ダンプで余計ひどくなった道を急ぎ、夕方首都のコナクリに着いた。

   
ギニアの田舎で出会った、すっぽんぽんで遊ぶチンポコ小僧

CONTINUE