アフリカの風になって 5

GUI3s
国境を越えた大きな川には古い石橋があった(一番向こう)
ここは広大な洗濯場でもある

とんでもない国

 ギニアの首都コナクリの街はビサウよりはかなり広く、市内は活気があるが街全体は全く近代化されておらず、3階建ての建物さえほとんど無い。日本の田舎の小さな町よりずっと小さいくらいだ。さっそく宿探し。ホテルを紹介する、と言う子供に連れられ幾つか当たるがやはり高い。やっと何人目かのホテルガイドの子供に連れられ、1600円程の安宿を見つけ、子供に小づかいをあげ、荷物を解いた。この日はまだ日が高かったので水シャワーを浴びて散歩がてら近くのマルシェを覗いてみた。
 宿のすぐ裏にそれはあった。どの国にもあるように細い丸木で組んだ屋台が並んでいる。中を覗くと生鮮食料品は割と豊富で特にマンゴーが種類も多く、でかくて旨そうだ。しかし、雑貨類となるとほとんどが輸入に頼っているらしく中国製のちゃっちいものが少しあるだけ。今までの国とかなり違う雰囲気だ。ウロウロしていると面白い屋台を見つけた。何と薬屋の屋台があるのだ。しかも売っているのは注射器や病院でくれる薬のような専門的な物ばかり。いろんな国の市場を見てきたが、薬専門屋台は初めて見た。ましてや注射器を売っている屋台は初めてだ。
 以前、アムステルダムの公園で覚醒剤中毒者にエイズ予防のために注射器を無料で配っていたが、その使い方とは違いちゃんと薬用の注射器だろう。そうしているうちにここで意外なことが起こった。写真を撮ろうとするとみんな顔を背け、あからさまにイヤな顔をするのだ。初めてのことでとまどってしまう。戒律の厳しいイスラム圏でさえ顔を背けるのは女性だけで、オヤジなら半数以上は笑顔を撮らしてくれたものだ。理由は分からないがこの日は暗くなってきたので諦めて帰ることにした。

GUI5s
日本大使館そばの海岸はゴミ捨て場だ。公共心はかなり低い

 翌朝、洗車をしようと街を走り回るが何処へ行ってもフッかけられてイヤになり、諦めて日本大使館へ日本の新聞でも読みに行くことにした。ここの大使館には日本人はめったに来ないらしく、
「観光客の方が来られたのは半年ぶりです」
と言って何と大使が出てきてくれた。後にも先にも大使と話したのはこの時だけ。中には長期旅行者と見ると露骨にイヤな顔をされたり、インターホンでしか話をしてくれない大使館もあったのだがこんなひどい国で働いていると少しは旅行者の気持ちも分かってくれるのだろう。
 午後、そこで知り合ったジャイカのYさんに連れられ、職場である発電所を見学させてもらうことになった。コナクリは世界1停電の多い首都、らしい。そう言えば昨夜も3時間ほど停電になった。それでも以前よりかなりマシになったそうで、数年前までは電気が来ない時間の方が長かったのだそうだ。
 その発電所は何と街のド真ん中にあった。その施設をドイツと日本が共同で援助していて運転指導もしているそうだ。工場のように大きな建物の中にはでっかいディーゼルエンジンがいくつか動いていた。そして、ここの一室でギニアに関する興味深い話をいくつか聞かせてもらった。

 その一、ギニア人は機械を扱う才が無い。

 機械、モーターのたぐいはいつもフルパワーじゃないと気が済まないらしく、車を運転させればフルスロットル、クーラー、冷蔵庫はいつも“強”。これを聞いてインドを思い出した。インド人も“強”じゃないと気が済まない民族で、遠く離れたここの人と同じ気質だったのは面白い。
 それで傷みが早く、修理をしない、修理が出来ない、修理しても技術が無く余計壊す、等の理由でスクラップになるのも早いのだそうだ。そう言えばコナクリに来る間にも道端にサビ付いて放置された建設用重機(ブルドーザー、ローラー等)をいっぱい見たし、比較的新しい車がスクラップになっているのもよく見た。その時は、何て物を大切にしない国民だ!と思ったものだが、そのことを言うとYさん、ふんふん、とうなづいて、
「いくら言ってもなかなか分かってくれません」
と次のような話をしてくれた。
 ここで働いているエンジニアも“フルパワー”でないと気が済まないらしく、当初機械の設置、修理の際、力の入れ過ぎでねじを潰す事故が多発したらしい。いくら言っても直らず、ここにあるほとんどのボルトが一度はねじ切られた、と言っても過言ではない程だと言うのだ。その中にはねじ切られるハズも無いような、直径数センチのボルトも入っていた、というから凄い。少なくなったとは言え今でも時々やられるらしい。

 そのニ、働かない、貰える物は何でも貰え!

 ねじを締める時は凄い力を出す連中も通常は力を出さず、能率が悪い。彼らは国家公務員で、もう収入が保証されている。そうなるとサボることしか考えず、時間外に働かせようとすれば必ず『金をくれ』と言い出し、ことあるごとに仕事用の服を買ってくれ、靴を買ってくれと大変らしい。
 ここの所長がこれに輪をかけたヤツらしく、若いのだがモスクワ大学に留学した(この国は‘84年まで社会主義国だった)のが自慢で、それを鼻にかけ、エアコンの効いた豪華な部屋で、一日ふんぞり返っているそうだ。それでいて何かトラブルが起こるとYさんとかドイツの技術者に泣きついて来るらしい。
 ここでは公務員じゃない人も働いている。この国も不況で仕事になかなかあり付けないらしく、それで技術も身に付くし、空きが出たら入り込むことが出来るかもしれない、という期待で無給のまま働いている人が数人いるという。公務員の下っ端は彼らをコキ使って自らはサボる。でも彼らが運良く採用になったりするとまた無給の人をコキ使う、ということになるらしい。

 その三、金にセコい。

 外国人の上司と多少でも親しくなると必ず、
「田舎の親が病気になって金がいる。金、借してくれ」
というようなことを言い出してくるヤツが出て来るらしい。
 これは面白いことにこの国だけのことでは無く、今まで通って来た国々で何度も聞いた話だし、これから先の国でもまた何回も聞くことになるのだが、何故か何処の国でも話はワンパターンで、田舎+親か兄弟+病気か死んだ、となる。私でさえ初対面の男に路上で何度も言われたことがあるのだ。これを言うとお互い爆笑になった。まあ、こういうのは笑い話だが笑えない話を一つ。
 何と、Yさんの宿舎に“電気代”の請求が来たらしい。
「電気を作っているのはオレだ!」
と役所に文句を言ったら何カ月かしてようやく請求は来なくなったものの家とガス・水道代の請求は止まらなかったらしい。その抗議をギニア政府にすると、
「お前は日本で給料を貰っているんだろう(ギニアが雇っている訳じゃない)」
というワケのわからない返事で未だ請求は続いているという。
 このメンタリティは到底理解出来ない。西アフリカの国々には、最初から国家予算に援助金が計算されている国もある、という話を以前聞いたことがある。少なくとも取れるヤツからは何でも取ってしまえ、という考えはどの国も共通らしい。こういう国と、こういう国の未来が悲しくなった。
 もっと話を聞きたかったが仕事の邪魔になると思い、3時間ほどで辞することにした。バイクだけ洗わせてもらい、お礼をして発電所を後にした。

 街を走っていると、日本が贈った、というトヨタの4WDに我が物顔で乗り、街中をビュンビュン走り回るポリスをよく見かけて隠れた。君子危うきに近寄らず、だ。途上国のポリスは恐いのだ。この後宿に帰り、バイクを置いて昨日のマルシェを再び覗いてみることにした。この数十分後、そこにとんでもない事件が待っていることを、この時はまだ知る由も無い。

  GUI4s
ギニアの渡し

ポリスとの戦い

 それは宿からほんの300メートルほど離れたマルシェを入ったすぐの所で起こった。
 この時はまだ日も高く、いい写真が撮れるかな、と思い、マルシェの入り口に止まっていた古いトラックの写真をなにげなく1〜2枚撮り、屋台を覗いていた。そこにポリスが2人現れ、いきなり逮捕され、連行されてしまったのだ!市場にいた男からの通報だったようで、数人の男が取調室までついて来てポリスの肩を持ち、窓の外からバ声を浴びせかける。ポリスの尋問に、
「 フランス語なんかわからん!」
とはねつけたら英語の少し分かる若いポリスを連れて来た。
「何ヲシテタ!」
「 写真撮ってただけじゃねーか!」
「 スパイシテタンダロ!」
「 おめーの国にスパイされるようなモノがあるのかよ!」
フランス語と英語と日本語で怒鳴り合う。

 そう言えば以前にも同じ目に遭ったことがある。数年前、ベルリンの壁が崩壊する前のチェコスロバキアでのこと。社会主義国ではカメラを持った外国人=スパイなのだ。この国も数年前まではソ連ベッタリの社会主義国。その時の教育が未だ染み付いているようだ。市民が明らさまにポリスに味方したり密告したりするのは社会主義国の特徴。クソッタレヤローばかりだ。
「 フィルムヲ出セ!」
と言うポリスに逆らって意地でもフィルムを渡さなかったので怒鳴り合いが延々続いた。取調室の回りにはヤジ馬が群がり始め、ヤジが飛ぶ。ポリスもあからさまに銃に手をかけたりして脅す。そうするとヤジ馬が喜ぶ。私も切れる寸前。
「 てめーらのパトカーも全部日本がくれてやった物じゃねーか。オレの税金もその中に入っているんだぞ!日本大使館に連絡しろ!」
 この時、土曜日午後で大使館が閉まっているのは知っていたが、この位言わないとハッタリが効かない。コイツらは直接自分の利益に係わる話になると態度が変わってくるのも分かっていたので、
「 これが問題になって援助がストップしたらお前が責任持つんだぞ!」
とまたハッタリをカマせる。
  私の剣幕に驚いたのか、この言葉が効いたのか、はたまた外国人いびりに飽きたのか、2時間以上も過ぎた頃、回りのヤジ馬に自分のプライドを保つためだろう、何かゴチャゴチャ言った後やっと解放された。宿に帰る途中、
「 大変だったな 」
とか、
「 ポリスはバカだから、気にすんな 」
と言ってくれるマトモな人も少し居て、ちょっとだけホッとするが、部屋に戻ると怒りが湧き上がってきた。バカヤロー。こんな国に日本が多額の援助をしていると思うと情けなくなる(これは決して私ひとりの意見ではなく、アフリカで出会った多くの日本人の意見だ)。国際貢献とか相互理解とか美辞麗句で我々の血税がつぎ込まれているが向こうは相手のことを理解しようなんてこれっぽっちも思っておらず、金だけが目当てなのだ。
 金をくれるなら日本だろうがフランスだろうがロシアだろうが何処でもいいのだ。それも分からず日本のオエライサンの自己満足のためだけで血税をバラ撒いていいのか。もうこんな所に用は無い。大使館の人やYさんにももっと話を聞きたかったが街でも顔を知られてしまった。バカどもがまた騒ぎ出さないとも限らないし、身の危険も感じていた。とっとと出て行った方が安全だ。明日の朝早く出よう。

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ギニア最後の渡し

日本とドイツ

 翌朝、20ドルだけ闇両替をしてコートジボアールへ向け出発。こんな後味の悪い旅立ちも初めてだ。
 道は50キロも走ると山岳地帯に入って行った。未だ内戦がくすぶり続けるシエラレオネとリベリアを迂回し、コートジボアールの国境へと向かう、1200キロ程のジャングルの中の道を急ぐ。道は一応舗装されているが道幅は狭く舗装も悪い。両脇はうっそうたるジャングル。見通しは悪い。そんな中で野生のチンパンジーの群れが道を横断しているところに出くわした。エンジンを切り、惰力で近づいてその群れを見た。その内の何頭かと子供を抱えたオッカサン何頭かが立ち止まり、珍しいのかこちらをじっと見ていた。
 ゴーグルを外し、改めて見たら目が合い、挨拶をした。どのくらい見合っていただろう。ボスの一声で彼らはジャングルの中に消えていった。ほんのちょっとの時間だったがなんか平和な気持ちになった。ギニア唯一のいい思い出になった。

 この日、道を間違えたりしながらもジャングルを抜け、簡易舗装になった道を飛ばし、計600キロ程走り抜け、夕方、ファラナという小さな村に着いた。不思議なことに何にもない田舎なのに場違いなくらい立派な(平屋のボロ家しかない村にペンキ塗りの二階建ての建物、というだけだが)ホテルが3軒あり、看板も無い一番安いホテルに入った。料金は1000円程で、何とクーラー、バス、トイレ付。ただし電気は夜だけしか来ない、ということで明るいうちはクーラーは効かない。
 荷物を下ろし、外へ出てみる。村を貫く幹線道路沿いに屋台が並び、それがマルシェを形成していた。ホテルにはレストランが無く、村にもメシ屋らしきものが無いので屋台でコーヒーとトースト、肉の串焼きを食った。ここまで来ると行き交う人々の顔も明るく、あのコナクリの危なさも無い。
 暗くなり、ビールを買ってホテルに帰ると電気が点き、クーラーが動いていた。昼間うだるような暑さだったので心地いい。が、その涼しさに浸る間も無く停電。結局このまま朝まで復旧せず、汲み置きのバケツの水で体を洗い、暑さで眠れぬ夜を過ごすことになった。
 翌朝、ガソリンを入れて出発しようと思ったら何と売り切れ。地図によると十分次の街までもつのでそのまま出発する。
 そしてその次の街。ここのガソリンスタンドにもガソリンは無かった。さーて困った。ここで無ければこれから行く奥地にある訳は無い。今のままではとてもコートジボアールまで持ちそうにない。とりあえず現金も無くなっていたので銀行に寄ることにした。そこでドイツ人の青年に遭った。
 彼はドイツ政府派遣のプロジェクトでここに来て1年になると言う。日本のジャイカみたいなものだろう。ガソリンのことを言うと、
「 うちにあるのを少し分けてやろう 」
と言ってくれた。ありがたい。
 車で先導する彼について少し行くと街の少し外れに彼の家があった。小さいが場違いに立派な家。しかもヨーロッパ風なのだ。塀で囲まれた家の中に入るとそこは真にヨーロッパ。聞けば、何と材料のほとんど全てをドイツから運んできて建てたらしい。しかもそこには彼の奥さんと2歳にも満たない子供がいた。日本とはえらい違いだ。日本ではジャイカの一部を除いて単身赴任。ましてや乳飲み児連れなど皆無なのだ。
 海外青年協力隊などは現地の人と同じ所に住み、同じ物を食べ、反感を買わないように一緒に仲良くやりましょう、という考えで、任期の二年間は帰国はおろか休暇の時もごく一部の国を除き、外国旅行も出来ない。
 ドイツの考えは違うようだ。仕事をする時はアフリカ。家に帰ったらドイツに戻って鋭気をやしなう。技術を教える立場なので生活が違ってあたりまえ。
 『オレらよりいい物食って、いい生活している 』
などという子供のひがみやねたみたいな物は受け入れ側が前もって教育しておくべきで、専門技術を教えに来たのだから、そんな小学生に教えるようなことからはしない。休暇は個人の勝手で何処へ行こうがノータッチ、というやり方のようだ。しかも1年に一度は公費で本国に帰ることも出来るそうで、根本的に考え方が違うようだ。

GUI6s
晴れていてもドロドロ、雨が降ると・・・

 さて、どちらのやり方がアフリカの人達のためになるのだろう、と考えた。良く分からない。もし自分が派遣されるならドイツ式がいい、と思うくらいだったが、後日出会った海外青年協力隊の若者達とこのことについて話し合う機会を持つことになった。そしてまたいろいろ考えた。
 彼らは、
「そんなやり方じゃ反感を買って誰もついてきませんよ。信頼を得ないとやってくれません」
と言うのだ。確かにそういうことが必要な仕事もあるだろうが、不満は無いのか。
  日本を出る時、そういう教育を徹底されていて疑問に思わないらしい。だからドイツ式とは両極にある、
『 キミの任地には電気も井戸もありません』
と浄水器だけ渡して独りで山奥の村に行かせる、というやり方(隊員から直接聞いた体験談)をも当然のことのように受け入れている。
  外部の人間の余計なお世話だ、と言われるかも知れないが、20数年間、何の不自由も無い(あえて言ってしまう)日本人をやってきて、いきなり何にも無いアフリカの奥地へ行かせて、今からアフリカ人になれ、じゃ仕事どころの話じゃないだろう。そう言うと彼らも不満はあるらしく、途中でギブアップ出来ない雰囲気が出来上がっていてノイローゼになったり、自殺した人もいるらしい、という部外には決して出ない話をしてくれた。

 協力隊とは、途上国に農業とか工業とかの労働力として現地の人と一緒に働くために行くことではない筈だ。あくまで技術の教育とか指導をしに行くのが仕事であるべきだ。それなのに日々の生活の苦労からやらなければいけないということは自分の技術を生かそうと情熱を持ってやって来る隊員がかわいそうだ。どうも彼らの話を聞いたりいろんな国で見たりして思うに、日本の国というのは協力隊なんていくらでも応募があるから文句があるなら来なくていいよ、という傲慢な態度であるらしい。そして本当に途上国のことや隊員のことを考えてやっているのではなく、先進国への、日本はこれだけ人を送って金を出して貢献してますよ、というポーズだけのためにやっているように思える。 だから日本政府の自己満足だけで押し付け援助をし、受け入れ側も表面では感謝しているようでも裏では、
『言えば黙って金を出すバカな中国人か日本人か知らんが東洋人、貰ってやっているんだ』
くらいの意識しかないのだ。その金でさえ途上国では国のトップが自分の物にするため、ブン取り合戦を繰り広げ(まあこれはODA利権をあさる日本の議員も同じ低レベルの人間だが)一番援助を必要とする庶民にはほとんど行きはしないのだ。

 さてそのドイツ人の家。西アフリカのギニアの、それまた大田舎の、ここだけドイツ、という不思議な空間で昼メシまでも食わせてくれた。彼はあと1年程したら本国に帰り、元の仕事に復帰するという。食後、彼は仕事に戻る、と言うので私も出発することにした。ガソリンを13リットルほど分けてもらい、礼を言って走り出した。

 街を出て少し走ると両脇はすぐにジャングルになり、道はドロドロの赤土になった。ヌルヌルで滑りやすい。そのうち雨になり、激しく降り出してきた。スコールなのかやはり雨季が始まっているのか。この日はジャングルの中の小さな村にあった安宿に泊まった。バイクも体もドロだらけになっていた。

象牙海岸へ

 翌日、今にも降り出しそうな空の下を出発。前日の雨で道路はドロドロでスピードが出せない。そして午後、ギニアで4度目の渡し舟に乗った。このあたりはまるで日本の山のような風景が続く。なつかしい景色の中を飛ぶように走る。気分がいい。アフリカに来てこんなことは初めてだ。そして、いつの間にかあたりは竹林になっていた。益々日本風になったその長い竹林の中をノスタルジイな気分で走り抜ける。

 一時間ほど走ると森が開け、小さな街に出た。そこがコートジボアールとの国境だった。少し残っていた金でメシを食い、気合いを入れて手続きを始める。が、意外なことにあっさり手続きが済んだ。コートジボアール側もすんなり。ただ、ここではパスポートをチェックするだけ。スタンプは60キロ先の街で押してもらえ、と言う。ヘンな決まりだがしょうがない。両替する所も国境には無く、まずは両替とスタンプを貰いに次の街へ急ぐ。一時間程でオフィスを捜し出し、スタンプを貰い、ついでに少しの金を替えてもらって、走り出した。

CD15s
西アフリカ唯一の高速道路

 コートジボアールへ入ると道がいきなり良くなった。通り過ぎる村も場違いに立派で、何と小さな集落にさえ電気が来ていた。地形的にはギニアと変わらないのにギニアでは荒れ放題の土地も綺麗に耕され、人の手の入った畑が延々と続き、作物が実っている。こんな景色も久しぶりで、農耕民族の日本人をホッとさせてくれるものだ。しかも何と昼間から人々が働いているではないか!今まで通って来た西アフリカの他の国々ではこんなに多くの人達が日中野良仕事をしている光景をついぞ見たことがない。 さすがに“アフリカの日本人”と呼ばれる働き者のコートジボアール人だけのことはある。貧しい国の人間ほど働かない、という事実はいろんな所で見て来た。テレビで見る貧しく悲惨な光景も、多分に自業自得の面があるのだ。 この日の夕方、マンという小さいが久しぶりに小綺麗な町に入った。ところが安宿はキタない所しか無く、結局教会の宿舎施設に泊まることになった。メシも教会の食堂で食わせてもらう。そこでキビキビ働く黒人のシスターを見ていると改めて今までと違う世界に入ったような気になった。
 翌日、首都アビジャンの手前200キロ程の所から道は片道三車線の高速道路になった。アフリカに入って高速道路と呼べる道を初めて走る。バイクは無料。ヨーロッパ以来の快適な道で、昨日までのクソジャングルの道がウソのようだ。この日の夕方アビジャンに入った。
  この街はダカール以来の高層ビルが立ち並ぶ大都会だ。街はダカールより洗練されていて街並みは元の宗主国フランスの新市街風。しかも市内バスは以前パリを走っていたルノーのバスの中古でカラーリングもそのまま。ふとパリを走っている錯覚に陥ってしまった。なつかしい。
 街をひと回りし、目星を付けたホテルを順にあたってみる。が、何処も高く予算オーバー。日もすでに暮れ、どうしたもんか、とウロウロしていると橋を渡ったトレイシュビル地区に安宿がある、と聞き行ってみる。
 橋を渡ると街並みはアフリカの住宅街になった。宿はすぐ見つかった。一泊1500円程だったが他をあたる元気もなくチェックインした。部屋に入ると、何とアフリカに入って三回目のクーラー付き。日本のビジネスホテルみたいで言うことナシ。久しぶりのホットシャワーを浴び、ジャングルのアカを落とすことも出来た。

CD14s  CD5s
近代的なアビジャンの街だが、中心には市場がちゃんとある

 この街での仕事は、ガーナ、ベニン、ナイジェリアのビザを取ること。アフリカの旅はビザ取りの旅。今まで9つのビザを取った。これがメンドウで金もバカにならない。これはビザを取る時いつも思うことだが、やはり理不尽だ。たとえばフランスから、よーいドンで日本人とフランス人がサハラを越え、ダカール経由でケニアまで行くとすると、約1カ月ほど日本人の方がビザを取る時間のためだけの理由で遅く着くことになるのだ。
 翌日さっそくビザ取りに回る。ところが休みが重なり、何処のビザも来週まで取れない。しかたなく日本大使館に新聞でも読みに行くことにした。長旅をしていると情報に飢えてくる。活字にも飢えてくる。ほとんどの大使館では外来者には2週間〜1カ月遅れの新聞しか見せてくれないが、それでもありがたい。しばらくの間新聞を読み、雑誌を借りて外へ出た。
 この街のド真ん中、高層ビルの下に道路に囲まれた50メートル四方程の、1階分掘り下げたような、ちょうど地下街の地上吹き抜けのような場所がある。そのあたりがアビジャンのマルシェだった。店の半分弱は観光客目当てのみやげ物屋だが、庶民のためのメシ屋もある。例によって覗いているとバマコでよく食った“洗面器ブッカケメシ”の屋台があった。洗面器で出てくるスタイルも同じ。具をトッピングするのも、中国製のアルミの鋳物か薄いステンレス板をプレスしただけのペラペラスプーンとフォークが付いてくるのも同じだった。何故遠く離れたバマコとアビジャンに同じ物があるのか不思議だったが、とりあえず食ってみる。値段は100円弱。安い。
 ここでは洒落たファーストフード店がいくつかあるが、かなり高く(ハンバーガー約400円、フライドチキンセットは何と700円程もする)ヨーロッパの観光客と一部の金持ち以外は手が出ない。やはりここが庶民のメシ屋なのだ。味はバマコのそれより具の種類も多く、旨い。特に魚が最高だ。まずいハンバーガーより余程いい。やっぱり毎日ここで食うのが日課になってしまった。

  CD2s  CD3s
ここのぶっかけめしの具は最高!

 4日後、ビザ取りが長引きそうなので宿を移ることにした。移る先はキャンプ場。郊外をウロウロ走っているとヤシの林の中を走る海岸通りに出た。そこにはいくつかキャンプ場があり、海で泳げそうで気持ちが良さそうだったし、何より金がかからないのがいい。いくつか当たって決めたのは市内から20キロほど東に行った漁村にあった“コパカバーナ”という名の小さなキャンプ場。キャンプ場のすぐ前はギニア湾。メシも旨く、冷えたビールもあり(ただし電気は来ていないが)、言うことナシ。経営者はフランス人の若者2人。
 キャンプ場の食堂の脇にフランスナンバーの古いBMWのバイクが置いてあった。経営者の一人、フィリップという名の金髪でひげもじゃの青年に聞くと彼はこれで流れ流れてこの街にやって来て相棒と知り合い、金を出し合って数年前このキャンプ場を造った、と言った。本国に何か心の痛みでもあり、故郷に居られなくなり、ヨーロッパにも居れなくなってここまで来た、という雰囲気もしないではなかったが詳しくは語ってくれなかった。
 それ以来フランスには帰ってない、ということだったが、ビザの問題は無いらしく、居ようと思えば何年でも居られるらしい。これからどうするの?と聞いたら、
「 もう何年かは大丈夫だけど、金無くなったら帰るヨ 」
と言っていたがあと1〜2カ月で電気も来る、と言うことだったのできっとうまくいっていたのだろう。 近くに魚の旨いレストランもあるし、漁村の屋台も旨いのがあるし、何よりここで作ってくれる食事が旨い。泳げるし、のんびり出来るしで移ってきて良かった。

  CD12s  CD11s
さすがフランス人のセンス、洒落たキャンプ場だ。
彼は、この古いフランスナンバーのBMWでやって来た

 翌日、バマコで遭ったイギリスの4WDトラックのツアーがやって来た。約1カ月ぶりの再会だけどみんな覚えていてくれて喜んでくれた。このツアーには1人だけ日本人が参加していて久しぶりに日本語で語り合うことも出来た。だがその翌日、大事件が起きた。朝起きたら、何とテントの入り口に置いておいたブーツが無くなっていたのだ!
  人も多いし回りは塀で囲まれているし、いつの間にか私になついた犬2匹がいつも私のテントの前で寝ていたのでアフリカに入って始めてと言えるくらい、全く緊張感を無くしていた。それが運のツキ。日本を出発して以来、身に付ける物で唯一交換せず今までずっと使っていて愛着があったヤツだ。クソッ。フィリップに言うと、すまなさそうな顔をするばかり。こっちがかわいそうになるくらいで、彼らを責める訳にはいかない。
 その日、何時間も近くを捜し回り、バイクで近くの村まで捜しに行ったが、結局犯人は見つからなかった。でも、見つからなくて良かったのかも知れない。もし見つけていたら犯人をどうしていたか・・・。結果として自分がどうなっていたか・・・。

CD13s  CD8s
キャンプの生活とキャンプ場の前、ギニア湾に沈む夕日

 この夜、何と嵐。強風と大雨が一晩中吹き荒れた。寝るどころじゃ無くテントごと飛ばないように中で踏ん張るだけ。翌朝、嵐が止み、外へ出てみるとトラックツアーのテントは全滅。みんなズブ濡れになっていた。今頃こんな嵐はここ数年で初めてだ、とフィリップは言った。雨季の初めにはこういう嵐があるそうだが、それなら1カ月位雨季が早いらしい。これから行くアフリカ第二の難関、ザイールのジャングルを思うと雨がうらやましい。
  キャンプ場に来て七日目の朝、快晴のこの日、トラックツアーのイギリス隊がガーナへ向け出発していった。私はその翌日の午前、遂にベニンのビザを貰い、いつもの“洗面器ブッカケめし”を食った後キャンプ場に帰り、ブーツの替わりに買った台湾製バスケットシューズを履いた。久しぶりの旅立ちの準備をすると気合いも入ってくる。
  そして午後、出発することにした。居心地は良かったが先は長い。行かねばならぬ。
「また来いよ、待ってるぜ」
と言って彼らが送ってくれた。
もう再びここに帰ることはないかもしれないけど、楽しかったぜ。ありがとう。オルボアール!

CD7s  CD17s
漁村にあった植民地時代の教会。おしゃれな子供、髪型に注意

 

 運命の地、ガーナ

GH2s
奴隷積み出しの拠点であった海城。外見は美しいが、中は地獄だった

 海岸沿いに延々と続くヤシ林の中の快適な道を160キロ程走るとガーナとの国境に出た。出国も入国も簡単。ただしハンコ待ちが長く、両国で2時間近くかかってしまった。
 この日、小さな港街に泊まった。夜、近くのレストランに行くと、
「昔は日本の漁船もよく入っていたもんだ」
とそこに居たオヤジに言われた。昔はいろんな国の船が入っていたらしい。そう言えばここにはインド人の移民が多い。ここの店の主人もインド人だ。西アフリカで初めてインド人を見た。元英国の植民地だったのがその理由なのかも知れない。
 翌日、東へ向かう途中ダカールで見たような、奴隷積み出しの海城が博物館になっている所があり、行ってみた。
 中に入ると、ここも奴隷部屋の上の階が教会になっていてゾッとした。この頃のヨーロッパ人(主にスペイン人)のメンタリティは究極の自分本位であり、人間とは思えない。この日の午後、日本の援助で造ったという有料橋を渡った。料金所で、
「 オレは日本人だ 」
と言ったらタダになった。そして、230キロ程走って首都のアクラに入った。
 ここはアビシャンと違い高いビルも無く、うんと小さな街で、とても首都には見えず広大な田舎街、といった感じ。ニアメイを半分にしたような規模しかない。当然観光化は遅れていてホテルも少なく宿探しに手こずったものの、“ホテルカリフォルニア”という名前だけリッパな安宿にチェックインした。 この街での主目的もやはりビザ取り。トーゴのだ。
 この街には博物館や美術館はおろかレストランさえもほとんど無く、観光と言えば小さなマルシェを覗くことと街を走り回るくらいしかなく、観光は半日で済んでしまった。楽しみは日本大使館から借りてきた雑誌を読むことくらい。ビザも翌日取れたので2泊しただけで次の国、トーゴへ向け出発することにした。半日で国境に出られるのだが、ボルタ湖を見たくて一泊の、ちょっと遠回りのコースを取った。
 しかし、その一泊が大きく運命を変えることになった。

GH12s
アクラの市場、魚屋のオバハン。働き者だ

CONTINUE