アフリカの風になって 6

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アクラの中心部に立つ、独立の門


運命の選択

 翌日の昼、国境に着くと、そこは人でごった返していた。通常の混雑とは何か雰囲気が違う。その中の人に聞くと、
「 国境が閉鎖されている」
というのだ。
 人をかき分け、ようやくゲートの所まで出たらやはりゲートが閉じられていて、その前にフランスナンバーのXT500が止まっていた。そのフランス人の話だと、トーゴ国内でのデモのため今日から国境が閉鎖されたらしい、と言うのだ。彼のフランス語でもう1度係官に聞いてもらうとどうやら当分開きそうにないという結論になり、彼と再びアクラへ戻ることになった。昨日、寄り道さえしていなければ今頃はとっくにトーゴを抜けていた筈だ。何せ幅が100キロも無い南北に細長い国なのだ。悔やんでもしょうがないが、でもまだこの時までは明日か明後日には元に戻り、通過出来るだろうと楽観していた。
  この日、以前と同じホテルカリフォルニアに荷を解き、日本大使館、トーゴ領事館に行って話を聞いてみたが何の情報も得られなかった。
 翌日も、その翌日も聞きに行くが同じ。徐々に不安が増してくる。3日目、やることもなく、日本大使館から借りてきた雑誌を読んでいると何とドイツナンバーのヤマハXT600にサーフボードを積んだドイツ人がこのホテルへやって来た。彼のガールフレンドも一緒で、彼女はTT350。ギニア湾でサーフィンをしたかったので、ドイツからこのカッコウでサハラを越えてやって来たのだそうだ。
「サハラは大変だったんじゃないかい?」
と聞いたらニコッと笑って、
「 ああ、何度も捨てようと思った」
と言った。
 今まで長い旅をして来たが、こんなノーテンキ野郎は初めてだ。ここまでやってくれればもう感心するしかない。彼らにトーゴの国境のことを言うと、
「最初からここアクラが終点で、後は飛行機にバイクごと積んで帰るだけだから影響はないヨ」
と言うことだった。

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ドイツからこの格好でやって来た大バカモノカップル!

 そしてその翌日、今度はドイツナンバーのBMW‐R100がやって来た。何と彼は今日、トーゴを抜けて来た、と言ったのだ。デモはすでに内乱状態になっていて北の方の国境の川をカヌーにバイクを載せて渡り、脱出して来たらしい。彼は、当分内乱は終わりそうにない、と彼は言う。
  これで一縷の望みも消えた。残る道は、
 “ 飛行機で飛ぶ ”
 “ 北上してブルキナファソ・ニジェールと逆戻りしてナイジェリアへと南下する数 千キロの遠回りをする”
 “ 国境が開くまで待つ”
 “ 船で運ぶ”
のどれかしか無いが、逆戻りするパワーはもう無い。待つのもいつになるか分からず、待てない。ということは飛行機か船しか無い。
 とりあえずこの日、航空会社、船会社を当たり料金を確かめてみた。予算外だったら国境が開くまで待つしかない。情報を得るため、ヨーロッパ人ツーリストが多く居る30キロほど離れた海岸のキャンプ場にも行ってみた。例のトラックツアーのイギリス隊もここに来ていて彼らは開くまで待つつもりらしい。ケニアからやって来たツーリストの話だと先月はベニンが閉まったし、カメルーンも閉まったことがあるという。しかもすでにここでも毎日スコールが降り、雨季がいつもの年より早いというのにこれから(この時4月中旬)向かう最大の難関、乾季さえドロドロで厳しいというザイールのジャングルは“地獄”に変わり、走れるかどうかも分からない。その上ザイールは経済の悪化で、今やガソリンも手に入らないらしい。状況的には飛ぶしかないか・・・。

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アクラ中心部の中央郵便局とそのポスト

 国境が閉まって1週間後、航空券を手に入れるべく動いていた。どこに聞いても進展がないことと輸送費が意外と安かったことで心が決まった。空港ではチケットは手に入らず、発券は市内のオフィスである。ところがオフィスへ行ったら、困った。何と全ての航空会社でクレジットカードが使えず、しかも支払いはドルキャッシュのみしか受け付けない、というのだ。手持ちのキャッシュがほとんど無かったのでまずはキャッシュ作りに走り回ることになった。
 銀行、街の両替屋を回り、一番手数料が少なくて済む方法を編み出した。それは、まず最初に街の両替屋でフランスフラントラベラーズチェックを現地通貨に両替し、それを持って銀行に行きドルを買うという方法だ。ところがドルがすぐ売り切れになり、10万円分程のドルキャッシュを手に入れるのに2軒の銀行を回り、2日もかかってしまった。
  チケットを買う直前、最後に大使館へ行った。だが状況は変わっていない。これが最後の決断だ。先が見えないとどうも弱気になる性格のようだ。これ以上待てない。飛んでしまおう、と市内の航空会社オフィスへ戻り、それでも最後に窓口のコに国境のことを確かめてもらい、遂に諦めチケットを買った。


遂にケニアへ

 次は空港にあるエアカーゴ会社だ。
 途上国の税関に行くと何処にも必ず『オレが手続きを手伝ってやろう』というのが居て通関をやってくれる。手数料をフッかけてきたり何の役にもたたないヤツも多いが、ちゃんと見極めて使えばかなりの手助けになる。
 エアカーゴのオフィスへ行き『バイクを送りたい』と言うと勝手に書類を集めて来た少年がいた。賢そうで金もフッかけて来ないので任せることにする。さっそく2人で書類集め。サーフボードのカップルも手続きに駆けずり回っていて情報交換しながら進めるが、結局全部終わるのに何度も空港と市内を往復し、2日かかってしまった。
 こんな風に体は手続きに走り回っているのだが心の中のわだかまりが解けないでいた。『行って行けないことは無いんじゃないか、せめてベニンかナイジェリアに降りて行けるんじゃないか、世界一周の旅に汚点として残るぞ、ダラシないぞ』と叫ぶもう一人の自分が居て頭から離れないのだ。

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市場で見つけた食い物。大カタツムリ、干物、豚足

 そうするうち出発当日の朝になった。最後にアクラ市内を用もないのにひと回りして空港へ行く。出発は夜だが、まだ最後の仕事、箱づめとその書類作成が待っているのだ。オフィスの前で木枠を組み立て、バイクを入れる。これで終わり、と思っていたら航空会社の係官が来て、『重さを量る』と言い出した。
 やばい。昨日少年に、
「バイクの重さを100キロにしてくれたら(書類上)エクストラ払うヨ」
と言ったら、
「オーケー大丈夫。まかせとけ」
と答えてくれたので安心していたのだが彼の力が及ばなかったようだ。
 バイクを計りに載せたら何と156キロ。料金はキロいくら、という計算になっているので予定してた額を遥かにオーバーする。とっさに20ドル程のワイロを渡し、重さを少なくしてくれるよう頼んだが答えは『ノー』。今まで通って来た西アフリカで通じた常識もこの国では通用しないらしい。オフィスに戻り、
「予定オーバーで金が足りない。何とかならないだろうか」
と何度もお願いすると、余程貧乏に見えたのか哀れに見えたのか最後に、100キロと書き込んでくれた。やった!ありがたい。とっさにお礼を渡そうと細かいドル紙幣を出した。すると、やっぱり受け取ろうとしない。西アフリカにもこんな国があったんだなあ、と嬉しくなってしまったが無理に、
「 メシでも食ってくれ 」
と言ったら、ようやく4ドルだけ受け取ってくれ、
「 グッドラック、気を付けてな 」
と言ってくれた。

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箱詰め、といってもこの程度、無事届いてくれ!

 手続きが全て終わり、一言も金のことを言わず手伝ってくれた少年に約束より多目に渡し、余った小銭も全部あげ別れた。そして木枠に入ったバイクはフォークリフトに載せられ、空港内へ運ばれて行った。
  あーあ、終わってしまった。倉庫に運ばれて行く愛車の後ろ姿を見ていると無性に寂しくなってしまった。親友を裏切ったような気分になった。バイクはやっぱり走りたかったんだろーな、とも思っていた。そして自分ではまだ、バイクを送り出した今でも、飛行機でケニアまで飛んで行くということに決心が付いていなかった。もうそれしか道は無いし、バイクも箱づめして送り出した後だと言うのに・・・。
  ただ、せめてもの救い、というか自分を納得させられるのはバイクと同じ飛行機で飛べるということだけ。途中の国に降りる、という手も考えたがフランス語しか通じない税関を通関させる自信もなかったし、その上経済状況が悪い国の税関員はおしなべて質が悪く、手続きが煩雑極まりないことを思うと一気にケニアまで飛ぶしかなかった。
 搭乗手続きも全て終わり、薄暗い空港ロビーに入り、待った。少年に小銭まであげてしまったのでコーヒーも飲めず、ひたすら待った。長い時間であった。何時間経っただろう。薄暗くなって遂に搭乗案内のアナウンスが流れた。
 後ろめたい気分でエチオピアエアーA‐300の機内に乗り込み、席に着いた。パリを出てからつい数日前までは飛行機に乗るなんて思ってもみなかった。あわただしい8日間だった。今までのアフリカの旅が遠いことのように思い出され、それが走馬燈のように脳裏を過ぎた。敗者のようにボーッと窓から外の景色を眺めていた。すると床からカーゴルームのドアの開く音が響き、下を覗くとそこに積み込まれてゆくXLRが見えた。これでひと安心だがもう諦めるしかない。ケニアから先の旅で穴埋めしよう・・・。

 この夜、皮肉にもザイールの首都キンシャサに一時間ほど降りた。そして夜が明けたのは、ドロまみれで走る筈だったザイールのジャングルの上だった。


チンボツ地?ケニア

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ナクル湖のペリカン

 飛行機の窓から見える景色はザイールのジャングルを越えるとサバンナ地帯に変わった。その大地に山が皺のように平行に連なっているのが見える。これが人類発生の地といわれるオルドバイ渓谷なのか。遠くにビクトリア湖らしき大きな湖も見える。サバンナの上を2時間程飛行し、飛行機は徐々に高度を下げ始めた。何とシマウマの群れが見える。そして、ケニア時間の早朝、飛行機は無事ナイロビ国際空港に舞い降りた。

 手続きも割とすんなり済み、外へ出た。ここで少しの金を両替してとりあえず市内地図を買う。高い、とは思ったがこの国の物価が分からず、買ってしまう。後で調べたら約3倍!いきなり見事に騙されてしまった。まあ、飛行機で直接知らない土地へ行くとこんなもんだ。そんなことより重要な仕事がある。今日中にバイクを通関させなければならない。そのために朝に着く同じ便で運んで来たのだ。1日延びれば手続きも面倒になり、経費もかかる。何事も合理的にやらねば旅を続けられないのだ。
 空港のオフィスで聞くとエアカーゴの倉庫とオフィスはかなり離れた所にあるらしい。ガーナでは空港ビルとエアカーゴのオフィスが隣接していて便利だったが、空港の規模が数倍も違うのでしょうがない。空港の前に並ぶタクシーはロンドンタクシーと同じ車なのだが、メーターも付いておらず、いかにもフッかけてきそうな運転手ばかりだったが何人目かの正直そうなオヤジの車でエアカーゴのセクションへと向かう。
 オフィスの前には例によって通関代行屋が何十人もいた。タクシーを出て、オフィスに行くがゴチャゴチャしていて訳が分からない。大きな荷物を抱えたままだから大変だ。そこへ、
「 手伝ってやろう 」
と言う男が何人か表れた。その中の、
「 200シリング(当時のレートで900円ほど)でいいよ」
と言う利発そうな青年に任せてみることにした。青年に、
「 オーケー 」
と言うと、書類をひったくるように取り、
「 ついて来い 」
というような顔をして一人でさっさと歩き出した。その後をカメラバックとバイクに積むバッグ、合計30キロ程の荷物を担いで追う。
 この青年、日本人の私でさえ驚く程せっかちで広いエアカーゴセクションの中を駆け回り、強引に書類を係官にねじ込んでゆく。おかげで仕事がはかどり、どんどん必要書類が集まってゆき、遂に昼過ぎ保税倉庫にある愛車を見つけることが出来た。が、ここで午前の部、終わり。昼休みになった。
 彼と近くの従業員食堂へメシを食いに行く。聞けば彼は子供の頃からここに来ていて、ここで英語と通関のしくみを覚え、仕事にしていると言う。えらいもんだ。
「 儲かってるかい?」
と聞いたら、
「 まあまあだね 」
と言っていた。
 2時過ぎ、オフィスが開き、最後の書類にスタンプが押され、それを倉庫の係官に渡した。倉庫の出口で待つことしばし。遂に奥からフォークリフトに載せられた愛車が運ばれて来るのが見えた。やったーっ!目の前に降ろされる。昨日荷作りしたままの姿。何も盗られていない。
 さっそくそこで木枠をバラし、バイクを組み立て、荷物を積んだ。青年は最後にちょっとだけフッかけてきた。書類代、ワイロ代、手数料で1000シリング、と言うのを800に値切り、払った。それでも彼の取り分は最初に言った金額の倍くらいにはなっている。そしてその金額は一般の人の半月分の給料とほぼ同じになることを後で知った。だから彼もそれで満足だったらしく、手を振って見送ってくれた。

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ケニアの中心部、全景

 ケニアはアジア以来久しぶりの左側通行の国となった。15キロ程離れた市内へと向かう。ナイロビは街並みこそアビジャンに負けているかも知れないが、何となく文化の香りがする。走っている車は西アフリカに比べるといい車が多く、西アフリカには無い新型ベンツまで走っている。外国人の多さは今回のアフリカの旅でダントツの一番だ。
 宿はすぐ見つかった。世界のバックパッカーが集まる有名な安宿“イクバルホテル”だ。ここで約2カ月ぶりに日本人バックパッカーにも遭った。部屋は彼らと同じドミトリー。一泊約400円。この夜は彼らに連れられイタリア料理屋に行った。この街は観光都市だけあって日本、イタリア、中国、フランス等いろんな国のレストランがある。もちろん庶民には行けないような料金だが、幸い日本人にしたらそんなに高くない。
 店は日本のそれと全く同じような造りで、味もなかなかのものであった。こんな綺麗なレストランに入るのは何カ月ぶりだろう。昨日まで居た西アフリカと比べたら、地理的にも気持ち的にもかなり日本へと近づいたことを実感させられた夜であった。

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イクバルホテルの入り口、ただし、これは到着した翌年の写真

 翌朝、このホテル一階のレストランで朝食を取る。キタナイが安いだけがとりえ。ミルクティ一杯、約20円。アラブ風、インド風の軽食もあり、世界のバックパッカーの溜まり場となっている。ここに座っているといろんな人がやって来て面白い。日本人も多く、1カ月程では長期滞在のうちには入らないらしい。中には半年以上ナイロビに居る、というツワモノもいた。長期滞在の理由はさまざま。スワヒリ語を勉強している人、ケニアにハマッた人、ドラッグにハマッた人、ケニアの女にハマッた人、ケニアの男にハマッた人、等々。
 世界には外国人がハマる街、というのがいくつかある。そのハマる場所に成り得る条件というのは世界中共通していて、まず第一に物価が安いこと。第二に食い物が旨いこと。以下、安宿が多いこと、ドラッグがあること、警察がウルサくないこと、等々だ。ついでに売春婦のオネーチャンが居ればなお良い、となる。どうやらこの街にはその全部があるようだ。
 欧米系の、俗に言うヒッピーも多く、中には頭の配線がキレているようなヤツも多く居るようで、『ドミトリーの他の旅行者の物を失敬して生きているのも居るから注意して下さい』と長期滞在の日本人から教えられた。
 そしてその居ればなお良い、というマラヤと呼ばれる売春婦も、しっかり朝からここに居た。夜はここの経営者がイスラム教徒らしく、酒が出ないので近くのバーに出没するのだが、昼間はおしゃべりと客の物色(?)のためやって来る。彼女らはくったくなく従業員や旅行者と話をしている。本人達も回りの人もケニアでは、いや少なくともこの街ではこの職業に対する偏見は無いようだ。彼女らと話していると、おなかの大きいコがいるのを発見した。日本人の“ 事情通 ”に聞くと、彼女らは気に入った客の子を平気で孕むのだそうだ。
 ケニアには、というよりアフリカでは子供を産めない女は半人前、みたいなところがあり、気が向いたら子供を作ってしまうらしい。アフリカには伝統として母系社会の地域が多く、それだからかケニアでも母子家庭が多い。子供を産む、ということについての日本の常識は全くアフリカでは通用しない。兄弟、姉妹のオヤジが全部違う、ということも珍しいことではないらしい。

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ナクル湖、フラミンゴの群

 後日、ここでとんでもない物を見た。
 いつものように、レストランで話し込んでいる彼女らの中に乳児を抱いているコが居た。ふとその子供の顔を覗き込むと何かヘンだ。するとそのコが話しかけてきた。日本人が好きなのだ、と言う。客として誘っているのか?と思っていたら、とんでもないことを言い出した。何とこの子のオヤジは日本人なのだと言う。そう言えば色は黒いが顔の輪郭が日本人だ。ヘンだと思ったことが当たっていた。そしてまたこんなことを言い出した。
「この子のパパは日本人だから頭がいいの。将来は大学に行かせて、いい会社に入らせて、アタシ楽させてもらうの」
その一言で固まってしまった。そしてちょっと悲しくなった。まあ可能性はゼロではないにせよ確率はかなり低そうだ。第一、日本人だからと言って頭がいいとは限らない。こちらの人は車も電気製品もメイド・イン・ジャパンは世界1だから頭のデキも世界1だ、といい方に理解してくれている人が多いが、本当はそうでもない。こうアッケラカンと言われるとこっちも困るが、良く言えば楽天的、悪く言えば何も考えていない、ということになる。
 第二に、この国では大学は超エリート、そこまで行くにはかなりのお金が要る。とても彼女の生活でそこまで賄えるとは思えない。先ほどの“ 事情通 ”が言うには、あと数人、オヤジが日本人の子供が居るらしい。あーあ、情けない。日本の恥、ツラ汚し、オヤジは誰だ!

 安レストランにやって来る人の続き。ひっきりなしにやって来る地元民がいる。ここに居る外国人目当てに物を売る人達だ。商品は時計、電卓、民芸品、タバコ、ライター、チョコ、ガム等なのだが、外国人が欲しがりそうな物はない。特に時計や電卓はとても売れるとは思えない。いったい商売として成り立つのだろうか、品物を仕入れる金も要るし、と“ 事情通 ”に聞くと、
「いやー、どうせどっかからカッパらって来て売ってるんだから、売れなくてもソンにはならないんですよ」
と言う。はたして真相はいかに。まあ当たらずとも遠からず、だろう。
 あと、外国人に売りに来ると言ったらサファリツアー。旅行社との間に立ってマージンを取る商売だが、かなりフッかけられるようだし、中には金だけ取ってドロン、というヤツも居るらしい。その他、路上パフォーマンスをやってるヤツとか路上サギ師、なんていうのもやって来る。ここのホテルの前が地方へ行くバス乗り場(バスと言っても日本製のワンボックスカーが多い)なので人出が多く、その人達相手の仕事の合間に休憩で来ているようだ。
 彼らは旅行者と話すのが好きなようだが、それが何か自分の仕事のネタにもなっているのだろう。彼らのように直接ここで商売をしていない地元民の方が稼ぎがいいようで、よく話をしていた男の路上パフォーマンスの出し物を覗いたことがある。話はスワヒリ語で分からなかったがかなりの小銭が集まっていた。 1日軽く100シリング(当時のレートで約450円)は稼ぐと言う。ちなみにここのウェイターの月給は、朝から晩まで働いて4000円程だそうだ。

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インド洋岸の街、マリンディにある遺跡

 そして、この街でもまたまた日本の援助に関する話が耳に入って来た。この話は日本の週刊誌でも報道されたが、ちょうどこの年に起こった。この国の大統領が各国の援助金でベンツを買い、部下の大臣達に与えた、という事件がそれだ。
「 どうしてそんなことをするんだ!」
と援助国が詰問したら大統領モイは、
「 そんなことは内政干渉である 」
と逆に開き直った。それに怒り、愛想を尽かした援助国( 北欧の国が多かったらしい )はケニアから引き揚げてしまい、日本だけが残った、というのが結末だ。
 日本はせっせと金だけ運んでくるピエロ。カモがネギしょってナベと醤油まで持って来るようなものだ。ODAとは正に、Okane Dake Ageruの略らしい。日本は何かケニアに弱味を握られているのか、と勘ぐりたくもなる。この事件で日本は他国から笑い者にされたらしい。情けない。金を出す国もマヌケだが、かようにこの国の大統領もムチャクチャだ。その例は他にもいっぱいある。
 以前、日本がバスを供与した時モイはそれを全て自分の経営するバス会社のものにしてしまった。これは“ モイバス ”と呼ばれ当地では有名である。それにもう一つ。MOBILというガソリンスタンドがあるが、自分の名、モイと同じ頭文字が気にくわず、KOBILと全国の看板を変えさせてしまった。全ての“ M ”というマークはこの国では御法度らしい。だからモイが生きているかぎり、マクドナルドはオープン出来そうにない。
 あげればキリがない。どんな街にもモイ・ストリート(またはアベニュー)という通りがあるが、以前はほとんどの場合“ケニヤッタ・ストリート”と呼ばれており、この名前は建国の父である初代大統領の功績を記念して付けられたものにもかかわらず変えてしまったのだ。
 さすがに空港名だけは反感を買いそうなので変えていないが、第一、紙幣にもコインにも自分の顔を印刷しているくらいだから正にムチャクチャだ。大統領と言うよりケニアという放漫経営の会社のワンマン永代社長みたいなもんだ。だいたい生きている人間、それも権力を握っている人間を通貨にしている国なんてロクな国はない(エリザベス女王やタイの国王も生きていて、紙幣に出ているが、あくまで象徴としてである)と思っていたら後で訪れたタンザニアもそうだった。そう言えば私が通った時のネパールもそうだった。紙幣に出ていた国王は権力も握っており“バカ殿”とほとんどの国民は言っていた。ちなみに以前の紙幣、コインには初代大統領が印刷されていたがそれを全部作り変えてしまったのだ。

 ★ ご存じの通りこの大統領モイはムネオとお友達で我々の税金をしゃぶりまくったのでした。こんなもん、10数年前、オレでさえ気が付いたんだからお役人が分からない筈はないダロ!結局みんなグルだったのですね!ところで、ネパールの“バカ殿”も殺されちゃいましたね。

  まあこんなにムチャクチャな国だが、他のブラックアフリカの国々もほとんどの国が大なり小なり似たようなもので、たとえクーデターとかで政権が代わっても権力の中枢に居る部族が代わるだけでやることは同じ。どの部族が旨い汁を吸えるか、という違いだけなのだ。自国の儲けは自分の政権を維持するための軍隊や警察に注ぎ込み、国民の生活は援助に任せる。その間せっせと外国の自分の口座に金を貯め込む、という構図は世界中の途上国に言えることだが、部族対立がはっきりしている分アフリカの国々の方が露骨なのだが、非黒人からは部族の区別がつかず、その歴史も分からないからイマイチアフリカの対立構造は分かりにくい。
 以前何かで読んだジョークを思い出した。確かこんな具合だった。

    酒場のカウンターで男が隣に座っている東洋人に聞いた。
   「私はこの街でセールスの仕事をしています。あなたは?」
   「私はアジアの方で国をやってます」
   そこで男は東洋人に名前を聞いた。
   「金日成です」
   とその東洋人は答えた。

というものだったが、これがシャレにならないような国が世界にはいくつもある。
 と、ここまで書いてきてふと気が付いた。部族を政党と変えれば我日本も少なからず同じようなものではないか、と。いやあ情けない。今までなんちゅー国だ、とアキレながら走って来た国々の政治と我が故郷の国のそれは本質的には同レベルではないのか。経済超一流、政治三流とはよく言ったものだ。

 

ウガンダへ

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ケニア側の赤道

 ナイロビに着いて4泊目の午後、走りそこねたルートを逆から走るために出発する。前日取ったウガンダのビザを持ち一路西へ。この日はスコールでズブ濡れになり、ナクル湖近くの街に辿り着きホテルに泊まった。
 翌日、ナクル湖観光をした後、ビクトリア湖沿いの道を走ってウガンダ国境へと向かう。そしてこの時、生まれて初めてバイクで赤道を超えた。午後、国境到着。手続きはウガンダ側で一時間程待たされたものの意外とスムーズに通過することが出来た。
 その通関の時、ここで大変なことを発見した。何と私の生まれ故郷熊本がマズイらしいのだ。パスポートに書いてある、KUMAMOTOの文字を見てイミグレーションの若いオネーチャンが顔を赤らめ、(たように見えた)回りのオヤジどもがニヤニヤし出した。この時は何のことか良く分からなかったが、後で聞いた話しによるとスワヒリ語で女性のナニのことである、と言うのだ。しかもその上に“ぬれぬれ”という文字が付く最高の猥褻語だったのだ。発音も全く日本語のままで通じる。以降、国境ではこれを有効に使って笑いを誘い、通関をスムーズにさせる術を身に付けた。この方法はスワヒリ語が通用するタンザニア出国まで有効となった。

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ウガンダ側の赤道

 さてウガンダに入国して30分も走っていたらスコールに降られた。地元の人に聞いてもやはり雨季が今年は早いらしい。夕方、ビクトリア湖から流れ出す白ナイルの源流の街に泊まった。
 翌日、再び西へと走り出す。ウガンダは砂漠は無く、サバンナさえ一部にしか無い。ほとんど全土が緑多い高原になっている。走っていると時折深い森が開け、綺麗に耕した段々畑を見ることが出来る。

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道端の果物屋。種類が多く、美味い

 こんなに国中が緑に溢れ、豊かに見える国はアフリカに来て初めて見た。その昔、チャーチルが“アフリカの真珠”と呼んだ意味が良く分かった。人々も明るく働き者で、畑仕事に精を出している姿をよく見かけた。
 しかし、緑溢れ、平和に見えるこの国はエイズ感染者の数が人口比で世界1なのだ。最近の研究ではこの国がエイズの発祥地でもあるらしい。この平和な風景の中に居るとそれが信じられないが、感染者は10人に1人とも、8人に1人とも言われている。それを思うとこの国の未来は暗澹としてくる。ようやくアミン大統領の恐怖政治を乗り越え、豊かで平和な生活を取り戻したというのに・・・。一生懸命働く人々を見るにつけ心が痛んだ。

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ウガンダで見かけた世界一の角を持った牛の群

 首都カンパラに入る前にまたしても雨。市内に入っても舗装が悪く、赤土でドロドロになった。市内は広々としていて高台の方には広い家も多いが、長い内戦の疲労でまだ整備されておらず閑散としている。整備をすればきっと美しく、快適な街になりそうだが長い道乗りになりそうだ。
 カンパラから20キロ程離れたビクトリア湖まで行ってみる。そこにはエンテベ国際空港があり、湖畔に出てみようと滑走路を横に見ながら走っていたらその滑走路の端に廃墟になった管制塔が見えてきた。
 首都の国際空港に廃墟があるのを不思議に思ったがその時、以前見た映画を思い出した。題名は忘れてしまったが、確かチャールズ・ブロンソンが主演の実話を元にした映画で、イスラエル特殊部隊による人質奪回作戦の物語だった。たぶんそのクライマックスの舞台となった管制塔が今目の前にあるヤツだ、と思うと不思議な気分になった。そして映画のシーンを思い出し、目の前の景色と重ねてみた。
 バイクを止めてボーッと眺めていたら遠くからカーキ色の車が近づいてくるのが見え、我に返った。警備の車だろう、面倒になるのもイヤなのでとっとと退散することにした。滑走路の端に立つと眼下にはゴルフ場には最高じゃないか、と思えるなだらかな丘が続き、その先に対岸が見えないほど広く、銀色に輝いているビクトリア湖が見えた。そのコントラストと広さが素晴らしい景色を創り出している。ただし、全く観光化はされておらず、内戦前に建てられたのであろう、その丘の中腹にある幾つかの別荘もまた廃墟となっていた。

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世界遺産でもあるルウェンゾリ山系を行く。美しい景色だ

 2日後、ザイールの国境と接する山岳地帯に入った。ダートの道はどんどん高度を上げてゆく。あたりの景色はちょうどネパールで見たそれのように段々畑が山の頂上まで続き、見渡すかぎりの山が開墾されていた。段々畑はトウモロコシと麦が植えられ、山の麓はバナナ畑だ。このあたりの人々も代々働き者らしい。そしてウガンダ最後の、キソロという名の村に入った。
 ここは村、というより小さな集落で、かろうじて電気は来ているが店もレストランもない。が、古いものの意外と大きい宿があった。そこで食事も作ってくれる。この日、泊まり客は都会から来たようなウガンダ人の家族と私だけであった。

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ザイールへ向かう道で会った子供たち

 翌日、バナナ畑の中に作られた細い道を辿ってザイールとの国境に行ってみる。約20キロで着いた。目の前はザイール。本当ならここから出て来る予定だったのだ。そこから地元の人に混じってイギリス人のバックパッカーが3人やって来た。ガーン、その時、とんでもないことに気付いた。そうなんだ。ここからザイールに入れるんだ!何とそのことがすっかり頭の中から消えていた。ビザ取ってくりゃ良かった。なんでそんなことに気が付かなかったんだろう・・・。
 後悔しても後の祭り。ここから100キロほどでゴリラの居るゴマまで行けたのだ。ビザを取るにはカンパラまで行かないと無理。一生の不覚、あーあ。

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電気、水道、寝具なし、蚊付きで1泊50円の宿

 仕方なく引き返す。帰りはザイール寄りの道へ遠回りしたが毎日スコールに降られ、ドロドロ道が続き大変だったが何とか4日後再びケニア入国。ケニア山を一周し、再び赤道を越え、10日間ぶりにナイロビに戻って来た。この10日間の間、9日雨に降られた。特にウガンダの雨は激ししかったがルウェンゾリ山系で隔てられたザイールはそれよりも遥かに激しいらしい。それを考えるとやはりガーナから飛んで来て正解だったのかも知れない。まあ、今は無理にそう考えるしかないのだが・・・。

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ドーロドロ続く〜よ、ど〜こま〜で〜も〜!

CONTINUE