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アフリカの風になって 7
アフリカの旅、後半

この格好で降り立った。先は長いぞ!
1993年11月、いよいよアフリカ後半戦を始めるため再びケニアのケニヤッタ国際空港に降り立った。緊張で身震いする。仕事に追われ予定が1年半も延びてしまっていた。いつでもそうだが旅の前、バイクに乗って出発するまでは初めての旅の時のように緊張する。本当にひとりで旅が出来るのだろうか、と不安でしかたないし、恐いのだ。まあバイクに乗ってしまえば腹も座り、度胸も付いてしまうのだが・・・。不思議なもんだ。
さて第一の関門税関チェック。今までバイクの修理とカルネ更新のため二度やって来ていた。最初の時はモンバサまで走り、次はタンザニアのセレンゲティまで走った。その二度ともバイクのスペアパーツだとかカメラだとかにイチャモンを付けられ、ワイロを要求されていたのだ。それもかなり高圧的で、ワイロを値切ることくらいしか出来なかった。アフリカで一番エゲツなくタチの悪い税関員がここに居るのだ。
一番人の良さそうなヤツのカウンターに並ぶ。今日もスペアパーツとタイヤ、フィルム90本を持っていたので、トラブルは覚悟していた。案の定バックを開けさせられた。スペアパーツが見つかった。新品のタイヤはすでに目の前にある。男は思わずニヤッと笑って、
「 コレハ税金ガカカルゾ。コレ全部デ幾ラダ!」
と言いやがったが、この手は来る、と思っていたのでちゃんと対策は考えていた。
「 カルネって知ってるか?」
と私。
「 ソンナモン知ラン 」
と男。
「 税関員のくせにカルネも知らんのか」
と、すかさずカルネを出し、
「これはバイクを無税で持ち込める、という書類だ。お前の国も加盟しているだろ、知らないのか、ホラ読んでみろ、その無税で持ち込めるバイクのパーツだから無税だ!(本当はカルネに表記してあるパーツ以外は無税ではないのだが)」
と言って男の目の前にカルネを突き出した。
男はしばらくの間それを読んでいたが、取れないと思ったのだろう。だが諦め切れないのかアラ捜しを始めた。そしたらマズイことにフィルムが見つかってしまった。勝ち誇ったように笑い出す。
「ヒッヒッヒ、パーツハ、マアショウガナイガ、コレハ税金ガカカルゾ、全部デ幾ラダ!」
その声を聞いて隣のカウンターのヤツが助っ人に来た。まだ客が並んでいるにもかかわらず、だ。しょうがなく
「 1本3ドルだ」
と言うと男はフィルムを数え始めた。20本はバラしてたので数えられず、全部で70本ということになった。喜々として電卓のキーを叩き始めた。そして、
「 税金ハ200ドルダ 」
と言い出しやがった。バカヤロー、と思ったが最初は下手に出て、
「 私はカメラマンで、ケニアが大好きで、日本の人にこの国を紹介したくて、その写真を撮るために来ました。そのためにこのフィルムがぜひ必要なのです。この国へ来たのは四回目だけど、こんなことは初めてです」
と言ってみる。
が、ヤツらはそんなことでは全然動じない。いかに金を取るか、ということしか頭にないようだ。甘かった。作戦を変える。
「 じゃ、どういう計算で200ドルになるんだよ」
「 責任者連れて来い!」
「 日本大使館に電話しろ!」
私の剣幕にヤツらも簡単にはいかない、と思ったのだろう。また電卓を叩き出した。
「 ジャ、124ドルダ。124ドル払エ」
「それじゃあ払ってやるから領収書出せ!手書きじゃダメだゾ、ちゃんとケニア政府の正式の書類にオマエのサインも入れて出せ!」
この言葉は効いたらしい。問答を続けているとコイツらの上司らしき男がやって来て手招きをする。行くと柱のカゲに連れて行き、
「ドウシタ、彼モ困ッテイル。特別ダ。50ドルデドウダ」
と言い出した。
ナニが困っている、だ。どうせオマエらで山分けするんだろう、と思ったがここらが潮時のようだ。それでも、
「 10ドルならいい」
と言ってやったら結局20ドルで話が付いた。もちろん領収書は出ない。支払いは税関を出た所。最初の男がノコノコついて来た。頭にきていたので、
「 金ない 」
と言って15ドルだけ渡し、さっさとタクシーに乗り込んだ。
全くこの国の公務員は上から下まで腐り切っている。ちなみに日本大使館で聞いた話だが外交官パスポートでさえ荷物チェックをするヤツが居るということだ。ヤツらには外交官特権もクソも無いらしい。世界1の大御得意様の日本の、それもODAの総元締め、政府外務省の役人に何てことをするんだ。

愛車の最終形。フロントフェンダーとタイヤを交換し、フレームを再塗装
この日は初日でもあり、ちょっとだけいいホテルに泊まった。最近ケニアは、というよりアフリカ全体の治安がどんどん悪化している。エジプトやアルジェリアはイスラム原理主義の台頭で外国人が危険になった。特にアルジェリアは私が通り過ぎた後、しばらくして再び国境を閉め、未だ開いていない。アルジェリア・サハラルートは、今では幻となった。
ここナイロビでは‘91年に最初に辿り着いた時には夜中街を一人で歩き回っても平気だったのに、街で出会ったバックパッカーは今ではとてもじゃないが夜は歩けなくなった、と教えてくれた。特にイクバルホテルのあたりは、たまにだが昼間でも強盗が出るようになったそうだ。しかもソマリアから大量の武器が流れて来て強盗が武装化し、金品どころか命も取られる事件が急増している、と言うのだ。
理由は経済の悪化。失業者が増えている。何せ‘91年春、1シリング4.5円だったのに2年半後の今(‘93年11月)には1.4円に下がってしまったのだ。インフレも凄い。街も何となくすさんでいて活気がなくなっている。夜、イクバルホテル近くのカレーの店に行った。以前よく通っていたインド人のやっている店でなかなか旨い。イクバルホテルの前を通ったら、以前毎日茶を飲んでいた一階のレストランが閉まっていた。聞けばもう半年も閉まっていて、開く予定もない、と言う。そしてその回りも人通りが少なく、暗く、以前の面影がない。何となく寂しくなった。あの時の賑わいは何処へ行ってしまったのだろう。変わり果てた故郷を見るようで辛くなった。もう未練はない、早く出発しよう・・・。
再び、南へ

ケニア、タンザニア国境にて
5日後、長々と居てしまったナイロビに別れを告げ、再び長い旅に旅立った。今回はこのまま南アフリカまで南下して南米に渡り、南米大陸を縦断した後、アメリカまで辿り着かないと帰れない。4万キロ以上走ることになるだろう。
久しぶりのフル装備は緊張もので、重い荷物とフルタンクのバランス感覚をすっかり忘れてしまっている。そういえば初めての海外ツーリングもこんな感じだった。だが、今日走るタンザニアのアリューシャまでの270キロは半年前に走った道なので腕慣らしにはちょうどいい。
スコールに2度降られはしたが、アリューシャの次の街、モシに夕方到着。アリューシャから先は初めての道で穴ボコと工事中のダートが続いた。このモシという街はキリマンジャロの麓の街なのだが、雨季だと山に雲がかかり山頂が見えない。今は小雨季の頃、前回同様今度もアフリカ最高峰を拝まずにここを去るのか、と思っていたら夕暮れの少し前、チェックインしたYMCAから20分程だけだったが雲の間から山頂が顔を出してくれた。

キリマンジャロが顔を出した!
この街でカワサキKLR650に乗る日本人と会った。彼は野生動物関係の学校に留学しているTさんという沖縄県出身の人で、バイクは通学のために日本から運んできて、高い税金を払って通関させた、と言う。近くのカフェで語り合ったが、そこでとても面白い話を聞いた。
普通の人の月収が日本円にして2000〜5000円しかないこのあたりで、帰国する2年先でいいから6000ドルでバイクを売ってくれ、という金持ちの現地人がいる、と言うのだ。このあたりにも、非常に数は少ないものの金持ちは居るそうで、だが金はあっても買う物が無く、そういう人達は外国製品を見つけるとすぐ飛びつくらしい。
それにしても平均年収の10年分以上を払ってバイクを買う人が凄いのか、そんな目もくらむ大金で中古のバイクしか買えない国がムチャクチャなのか、この国の貧しさと貧富の差を改めて思い知った。それでもこの国は数年前まで社会主義だった国。他のアフリカよりずっと貧富の差は少ない筈なのだ。

道端で売っていた、コーラ缶で作ったトラック
翌日、雲のかかったキリマンジャロに見送られ、首都ダルエスサラームへ向けて出発した。ここから1日で首都まで行けるのだが明日は土曜日、目的はビザ取りなのでこの日行ってもしょうがない。そこでこの日は首都の北にある海岸リゾートに泊まることにしていた。このリゾートへはダルエスサラーム手前20キロ程の所を折れ、大穴ボコで対向車が来るとしばらく何も見えなくなるくらいホコリのスゴイ道を25キロ北上した所にある。
着いてみるとリゾートの設備らしき物は何もないボロホテルが幾つかあるだけでリゾートとはとても言い難い所だった。土曜だというのに客も少なく閑散としている。こんなんでホテルを探している時見た、もうすぐオープンしそうだった高級リゾートホテルに客が行くのかなあ、と心配するくらいだった。
まあのんびりして良かったのだが1日で飽きた。何となく居心地も悪いし、長居出来る所ではない。そう言えば社会主義をやめた筈なのにロシア人と中国人が大勢泳ぎに来ていて不思議な所だった。2泊して月曜日、首都へと移動する。

インド洋を望む浜辺でキャンプ
ダルエスサラームはナイロビから950キロほど南東に位置するインド洋に面した港街で、とても綺麗とは言い難い街だった。近代的なビルはなく、スーパーマーケットすらもない。雑然とした建物がずっと続いているだけの、ホコリっぽい街だった。
それなのに旅行者物価はケニアよりかなり高く、バイクを止められる安宿もなく、一泊25ドルのホテルにチェックインすることになった。荷物を下ろし、さっそく街を歩いてみる。物もあるとは言い難く、この街最高の“キリマンジャロホテル”のビュッフェのコーヒーがインスタントだったくらいだからナイロビと比べたら、まあ何にもない。それでもまだ良くなったそうで、ほんの2年前まではトイレットペーパーさえも手に入らなかったそうだ。市場も活気が無く、興味をそそる街ではない。街を歩いている観光客も極端に少ない。

ダルエスサラーム市内、浜にある魚市場、魚が美味かった
夜、ホテルのバーにビールを買いに行ったらそこに日本人の青年数人が居た。海外青年協力隊の隊員だと言う。彼らの勤務地はバラバラで、月に1〜2度こうやって休日を利用して会うのだそうで遠い人は何時間もかけてやって来るのだと言う。旅の話、仕事の話で盛り上がったが酒の席でもあり、話は自然女の話になった。
面白いことに彼らは任期が終わると仕事を引き継いで帰国するのだが、彼女まで引き継いでいくらしい。もちろん『このコを頼む』と言う訳ではないが、日本人好みの現地人とか、そのコの日本人好みとかで自然にそうなるらしい。向かい側のカウンターに座っているコを指差し、
「あのコは前任者から彼が引き継いでいます。彼で日本人は3代目です」
と、隣でバドワイザーを飲んでいるマジメそうな青年を紹介した。
「実は私の彼女も引き継ぎです、ハハハ」
私も笑ってしまった。協力隊の仕事よりこっちの方が余程この国の人達の日本への理解と経済に貢献していたりして・・・。
だが困った問題もある。日本ではマジメだったのに、こっちに来て女に狂ってしまったのが何人も居る、と言うのだ。中には生でバンバンヤッているヤツも居るそうで、
「そのうち協力隊からもエイズ感染者が出ますよ。まあ公表はしないでしょうが。もしかしたら、もう出ているかも知れません。」
と言うのだ。
日本のオカミというのは『悪いことは起こらない』というのを前提で考えている。しかも、『公費で派遣している者はそういうことはしないで、仕事してりゃいいんだ!』と考えているのではないか。だから前もってレクチャーもせず問題が起こってから隠したり、言いつくろったり、あたふたしたりする。何事も、いつでもこうだ。血気盛りの若者を送るのだから性をタブー視してはいけない。

上の市場には観光客向けの土産屋もある。これは貝殻屋
さすがに彼らは仕事とは言えスワヒリ語に堪能で、マラヤ(売春婦のこと)さんと楽しそうに話をしている。うらやましいかぎりだ。やっぱり言葉は大切だ。彼女らには英語はほとんど通じないのだ。店内を見回してみる。ほとんどが地元民だ。マラヤさんは地元民専門と外国人専門のコに自然と分かれているらしい。だが、中にはやせ細って目が落ち窪み、見るからにエイズ末期症状、というコが片隅に弱々しく座っていたりしてギョッとしてしまった。
この後、彼らに連れられタンザニア1、という高級ディスコへ行った。日本円にしたら大したことはないが現地の人にしてみたら高根の花の場所だ。それでも中に入ると金持ちの地元民が大勢来ていた。彼らの話ではここに居る女の半分くらいはマラヤさんらしい。しかも先ほどのバーよりずっとランクが上なのだそうだ。この店にはアラブ系の顔をした客が多い。このダルエスサラームのあたりは古くからアラブの国々と貿易をしていて、住み着いてしまったアラブ人や地元民と混血してしまった人も多く、おしなべて商売のうまい民族なので金持ちが多いのだ。
この夜、彼らと一緒に酔った勢いもあり一人のオネーチャンを薦められ、ホテルに帰ることになった。部屋に入り、急に明るくなり、酔いも醒め、よおーく見たら、おおーっと!やはりアフリカ系黒人ちゃんは私には体質的にダメらしい。未遂に終わってしまった。オネーチャンの冷ややかな目。日本男児一生の不覚・・・。
ダルエスサラームには、ザンビアのビザを取るために2泊しただけで出発した。物価も高いし、面白い街ではない。一路マラウイへ向け走る。

ミクミナショナルパークで見かけた動物
250キロ程走るとメインルートはミクミナショナルパークの中を突っ切ることになる。大きい国立公園ではないが、舗装道路が公園内を通っているのは東アフリカではここだけだろう。普通、国立公園は一般道から離れた所にあり、入り口にはゲートがあって入場料を取られるものだ。当然、猛獣もいるのでバイクは入れてくれない(しかし、何とウガンダでは入れてくれて、ブッシュの中から『ガオーッ』と吠えられ肝を潰したことがある)が、この公園にはゲートはおろか柵も無かった。
公園内の道路の長さは約60キロだが、ここを走っていると徐々に周りに見える動物が増えていった。地形的には公園外と同じなのに、動物にはここに居れば人間には殺されない、というのが分かって公園側に居るのだろうか、不思議なものだ。あまり期待はしていなかったもののシマウマやガゼル、キリン、ゾウが群れているのをバイクの上から初めて見ることが出来た。今まで数頭のグループしか見たことが無かったので感激してしまった。
そして、2日目から道はダートの山岳路になり、3日目の朝マラウイとの国境に着いた。出国はスムーズ。入国も簡単なチェックだけでパスポートも見ない。この国は北アフリカのチュニジア以来ビザが要らない国だ。とても気分がいい。
マラウイに入ると道が急に良くなり、何と小さな村にも学校があった。ケニアやタンザニアでは大きな街以外ほとんど見かけることがなかったので驚いた。畑も綺麗に開墾され、大部分の家がレンガ作りで窓ガラスも入っている。電気もほとんどの村に来ていた。今まで通って来たアフリカの村はほとんどの場合電気もなく、土壁に藁葺き屋根の家だったので意外だった。しかも車も極端なボロは少なく、もしかしたら富が平均して分配されているのか、と思ったら嬉しくなってきた。
そのうち真っ青な海のようなマラウイ湖が見えてきた。とにかく、対岸が見えないほど広い。今日の目的地は、ヨーロッパ人の旅行者に教えてもらっていた、そのマラウイ湖で一番綺麗、という国境から350キロ程の所にあるチンチェチェという村だ。暑いが気分爽快なツーリングが続いていた。が、その先に、ギニア以来のとんでもない大事件が待ち受けているとは、この時、まだ夢にも想っていない。

田舎の市場。オバサンは腰にガキをくくりつけ頭には薪、強い!
最大の危機
国境から250キロ程走るとムズズという北部最大の街に着く。そこに危機が追って来ていた。
街に近づくと、検問をしている兵士数人が目に止まった。そして検問所の前まで来たらM‐60(アメリカ製の軽機関銃)を肩に掛け、フル装備の戦闘準備を整えた兵士の1人がこちらに銃口を向けたのだ。目が険しい。少々びびりながらパスポートを見せ、トランクを開けて見せただけでその場は通過。そしてまた数百メートル行った所で検問。その時の兵士の目が割と穏やかだったので、
「 何があったのか?」
と聞いてみたら、
「 政府の要人が数人殺され、その犯人グループがまだ逃げている・・・」
と言う。
悪い予感。ここもトランクを開けただけで通過出来た。すると道は空港の滑走路の横に出た。ここからの検問所の兵士は危険が近いのか目が益々険しくなっていて、銃口を向けているM‐16やM‐60は完璧に安全装置が外されている。危ない。
こんなことはイランの検問所以来のことだ。この後も500メートルおきに同じ検問が続いた。そして最後の検問所を通過し、目の前のゆるやかな登り坂を住宅街へ向かって少し進んだ所で突如“パラパラパラ”というM‐60の乾いた銃声が響き渡った。
その瞬間、前を走っていた車は次々にUターンして引き返してきた。その後ろを群衆が一斉に駆け下りて来る。そしてまた射撃音。完全にびびる。群衆に導かれ、数百メートル引き返し、脇道に入って止まっていたら兵士が10人ほど駆けてきて、
「こんな所で何してんだ!あっち行け!」
とドヤされた。これでまたまたびびり、完璧に寿命が3年は縮まってしまった。検問を3つほど引き返し、そこで長い間待たされた。銃声はもう聞こえてこない。しかしまだ危ないようだ。またタンザニアに逆戻りか・・・と考えていたら兵士が検問で止まったトラックを指差し、
「このトラックについて行って街を出ろ!」
と言い出した。ありがたい、ここから離れられれば何でもいい。トラックの後を追い、畑のアゼ道を通り、集落の中を抜け、数キロ走って街外れの舗装道路に出た。トラックのオヤジが、
「ここから先はオーケーだ」
と言ってくれた。やった!無事出られた!
そして再びこのメインルートを走り出す。時計を見たら約2時間が過ぎていた。半日くらい待っていたようにも、ほんの30分くらいだったようにも感じる。今思えば不思議な時間だった。
30分ほど走り、一軒屋の雑貨屋でコーラを飲んだ。ここまで来ると先ほどの騒ぎがウソのように静かになり、景色も元のアフリカの村に戻っていた。店のオヤジに先ほどのことを言うと、『ふーん』という顔をした。意味が通じなかったのか、それともそれは普通のことで、大したことじゃないよ、という顔だったのか・・・。
一息入れて出発。再びマラウイ湖が見えてきた。その中を走りながらまた先ほど起こったことを考えていた。そして最後の検問で、兵士がニヤッ、と笑って言った言葉が思い出された。
「 ディス・イズ・アフリカ 」
そうなんだ。今、何でもアリの所を走ってるんだ。それを忘れたらダメなんだ・・・。そう思うと全身に力がみなぎり、自然と気合いが入った。
この日、予定より2時間遅れてチンチェチェ村唯一の宿、チンチェチェインに入った。
マラウィ湖

マラウィ湖が見えてきた!海のようでしょ。詳しくは→ マラウィ湖 へ
マラウイ湖は南北に約600キロ、幅は平均して50キロくらいの細長い湖で、本によるとアフリカを縦断する、大地溝帯の一つに水が溜まったものだそうだ。とにかく大きい。ビクトリア湖も大きかったが、美しさではこっちが数段上だ。その中でも北から三分の一ほどの所にあるここ、チンチェチェが一番美しい。潮の香りがしないだけで真っ青の水、白い砂浜、ヤシの木、完璧に南の島、という感じなのだ。
真水なので当然満ち引きはなく、いつでも水面は一定。それがまた不思議に思えるくらい海の気分がいっぱい。透明度も高く、沖縄の離島くらい、といえば分かってもらえるだろうか。この日、他の泊まり客は白人の家族一組だけ。夜、誰もいない浜にビーチチェアを出し、寝そべって満天の星を見上げながらビールを飲んだ。ほんの数時間前の緊張感が遠いことのように思えてきた。波の音が心地いい。何て平和なんだ。この平和と昼の事件のギャップが大きすぎる。いったいここはどういう国なのだろう。ビールが腹に染み渡った。明日も、このまま旅を続けられるのだろうか。この平和がこのまま夢と消えないことを祈るのみだ。
余談だが、今まで通ったアフリカの国でここのビールが一番旨かった。日本のCMでも放送されている“カールスバーグ”をこの国で作っている。価格は1本50円くらい、安い。
翌日、午前中はバイクの整備、午後は泳いだりボーッとしたりして過ごし、2日後、これまたヨーロッパ人からマラウイ湖の穴場、と聞いていたマクレア岬へ向け出発した。
この日、マラウイに入って初めて給油した。再び走り出したらエンジンがカラカラいい出した。余程質が悪かったらしい。ちゃんとブランド名のある(この時はシェル)ガソリンでは初めてのことだ。後で聞いて分かったことだが、石油類は全て南アフリカからの輸入で、価格を下げるために何かブレンドしてあり、オクタン価がたったの47しかないという。それは国の方針らしく、どのスタンドでも中身は同じらしい。このブレンドガソリンが数日後、とんでもないことを起こしてくれることになる。

モンキーベイへ向かう道。この先は岩場の山道
マクレア岬は、マラウイ湖の南端にあるモンキーベイに面した半島の先端で、幹線道路から分かれ、洗濯板道と岩山の曲がりくねったアップダウンの激しい道を120キロ程行った所にある。
そこに電気も水道も電話もない小さな村があり、安宿とキャンプ場が何軒かある。ここに何故か欧米のバックパッカーがいっぱい集まって来るのだ。距離的には首都のリロングウェから直線距離で百キロ程しかないのだが、道が悪い上にずーっと遠回りで、おまけに定期バスもなく、トラックを乗り継いでここまで来る。このたった百キロが丸一日もかかるらしいのだが、そんなにまでして来る。

村で売っていた土産、とダイブショップ
そして来たら来たで日中気温は40度くらいまで上がるし、メシはここに一軒だけあるレストランで作ってくれるものの味付けが塩とレモンくらいしかなく、けっこうまずい。コーラ、ビールは売ってはあるものの電気が来ていないので当然ぬるい。夜も暑い。と、いいことは何もなさそうだがこの村に入ったとたん何かのんびりした雰囲気で、気に入ってしまい、欧米人が気に入るのも納得した。
ここで一番有名なスティービーの宿(そう呼ばれているだけで正式な名などない)に部屋を借りた。一泊約400円。水シャワーとトイレ付、夜はランプ。ただし水はマラウイ湖からポンプでタンクに汲み上げたものだ。
さっそく村を歩いてみる。そうすると、その何も無いことががいいのだ、ということが良く分かった。周りには自然が溢れ、その自然に溶け込んだ生活がある。村の人々の顔も穏やかで、村の中を歩くのが気持ち良かった。ここにいると観光客も自然に村に溶け込め、地元の人もそれを受け入れているような気がした。それは今まで過ぎてきた観光地の中で、一番観光客と地元民の生活が近いからのような気がした。時がゆっくり流れていた。

平和でのどか、時が止まった村
そうして一泊のつもりが四泊になった。日がな一日、散歩したり、湖で泳いだり、ボーッとしたりして過ごす。何もない、何もしない贅沢がここにある。欧米人はこういう旅の楽しみ方を知っている。普通の日本人だと一日で飽きてしまうだろう。価値観がだいぶ違うようだ。
ここに近代的レジャー施設が一つだけあった。ダイビングの店だ。経営者はイギリス人で、旅の途中ここを知り、気に入って住み付き、店を出したのだそうだ。思いがけなく淡水ダイブを初めて経験することになった。

ノー天気のドイツ人鉄人ライダーとヤツが手に入れてきたブツ
ここに先客のバイクが1台。ナンバープレートがブッちぎれたドイツナンバーのKLR650があった。持ち主はドイツ人の青年で、ドイツから、エジプト→スーダン→エチオピア→ケニア→タンザニアと抜けて来た、と言う。ほとんどダートを走って来たそうで、まだ1万2000キロしか走ってないのにすでにタイヤは2本目、スプロケ(チェーンの歯車)も2枚目、フォークからはオイルが漏れ、アルミボックスはクラックがいっぱい入り、フレームも溶接した跡があった。
話を聞くとかなりヒドイ道だったそうで、特にタンザニアからモザンビークに抜ける道がドロドロで1日100キロしか進めない日もあったらしい。彼はこの後、モザンビーク→ジンバブエ→ボツワナ→南アフリカへと進み、そこで旅を終わりドイツに飛行機で帰るらしい。彼はここにすでに1週間いて、もう4〜5日したら出発する、と言った。
4日目、ここで遇ったイギリス人にモザンビークを横断しジンバブエの首都ハラレへと抜ける最短距離の道を教わり、そのルートを取るため起点となるマラウイ最大の街ブランタイヤへ向け出発する。

ケープマクレアに住む人々
だがその前にどうしても見たい所があり、寄ってみることにしていた。何とカバが夜、川から庭に上がってくるホテルがある、というのだ。マラウィ湖の南端にマロンベ湖という直径20キロほどの小さな湖があり、そこに100キロほどの短い川が流れ込んでいる。その川の中程にリウォンデという小さな村があり、そのあたりがリウォンデ国立公園となっている。その中の、川に面した所に一軒だけホテルがあり、そこが目的のホテルだった。入ってみたら高級ホテルで(それでも四千円程だったが)、泊まるかどうか少々迷ったが、まあしょうがない、夜に期待して一泊だけ泊まることにした。
昼間、川を見下すレストランで食事をしながら川を眺めた。川幅は広い所で300メートルくらいはありそうで、その中に数十頭のカバが集まっているのが見えた。時折、『ブオーッ、ブオーッ』というカバの凄まじい叫び声が響き渡り、大口を開けてケンカ(?)をしている姿も見え、期待は高まった。
このホテルは全部平屋建てで川と平行して建っている。建物と川との間は20メートルくらいの幅で芝生が植えられた庭があり、多い時はここに20頭以上も上がって来るらしい。最近ではいつも数頭から十頭程は来ているそうだが不思議なことにここと、人が来ない小さな中洲以外には上陸しないのだそうだ。
この日、気温は40度を超えた。あまりに暑いので部屋の前の川で泳ごうと着替えて部屋を出たらたまたまボーイと顔を合わせ、
「この川にはワニが居るので泳がない方がいい」
と言われ、驚いて止めた。もしボーイと会わなかったら川に入っていたかも知れない、と思うとビビってしまった。

リウォンデ川に沈む夕日
そしてその夜、早めに夕食を済ませ、カメラを用意して待っていたがなかなか上がって来ない。相変わらず『ブオーッ、ブオーッ』という声は聞こえてくるが姿が見えないのだ。不安になってきた。やきもきしていたらようやく九時半過ぎ、ボーイが、
「一頭来ている」
と教えに来てくれた。
急いで見に行くと一番端の部屋のすぐ前で芝生をバリバリ食っていた。手が届くくらい近くに寄っても気にもせず食っている。若いカバのようだ。他のカバは?と聞くと、
「今日は川の中で寝ているんだろう」
と言うことだった。
結局この一頭しか上がって来なかった。それでも、野性のカバを目の前で見られて、まあ満足だった。

河馬が上がってきた
モザンビーク
翌日、昼過ぎにブランタイヤ着。近代的なビルが立ち並ぶかなり大きな街で、大きなホテルも多く、スーパーマーケットや映画館まである。街の規模こそナイロビより遥かに小さいが、ずっと綺麗で垢抜けている街だ。
さっそくホテルに荷物を置き、モザンビーク領事館に行ってみた。聞いていた通り、トランジットビザは翌日発行出来るという。何処にでも行けるツーリストビザさえも3日で取れるのだ。ナイロビの日本大使館で、
「モザンビークは危険なので行かないで下さい」
とオドされていたのに騒いでいる程大変な国ではないようだ。これで予定通り最短距離でジンバブエへ行けるだろう。
翌日、ホテルでエンジンがかからなくなった。ガスが来ていない。キャブレターをバラし、洗って何とか再始動したがこの翌日、何とモザンビーク走行中に2度も止まってしまった。この時、持っていたのは24時間有効のトランジットビザだったが、夜は走れないので実質あと数時間しか残されておらず、焦ったが何とか動き出し、一時間程の遅れで走り抜くことが出来、胸をなで下ろした。
すっかりキャブのガスバルブがイカレてる、と思っていたら、数日後判明するのだがマラウイのガソリンで日本製のガソリンフィルターの内側が溶け、詰まってしまっていたのが原因だった。外側まで軟らかくなってきてようやく気が付いたのだが、ガソリンで溶けるガソリンフィルターってあるかい!それとも、アフリカはガソリンまでも奥が深い、と言うのか。

モザンビークの村
ということでバイクのトラブルはあったもののモザンビークを無事通過。ユナイテッドネーション(UN)が展開していたので荷物のチェックくらいの覚悟はしていたが、日本人と分かるとノーチェックだった。国境を越えたらいきなりポルトガル語になって(以前ポルトガルの植民地だった)左側通行になり驚いたが、このあたり、北部は平和で緊張感は全く感じられなかった。PKO部隊の写真を撮ろうとしたら厳しく諌められたが・・・。
マラウイの銃撃戦の後日談を少し。
本当は軍と、それに対抗する大統領警護隊との対立だったようで(それでも数人死んだ)内乱までは行かず、数日で収まったものの首都では軍の暴走がエスカレートしてホテルの外国人の部屋にまで『チェック』と称して数時間おきに押し入り、荒らし回った(それを体験したヨーロッパ人旅行者の話)らしい。しかも現地人に対してはレイプまであったと言うのだ。
正にナントカに刃物ならぬ“ 銃 ”だ。途上国の軍隊は恐い。教育のない人間に銃とか権力を与えるととたんに横暴になる。今までいろんな国で身に染みてきた。やっぱりこの国もフツーのアフリカの国で、ロクな政治をやっていなかったようだ。

UNの検問所、1枚だけこっそり撮った。機銃を積んだトヨタが見える
今までとは違う国
さて、ジンバブエ入国。人が多いこともあったがやたら効率の悪い事務と係官のルーズさのおかげで2時間もかかってしまった。おまけに国境の村では両替と宿代をフッかけられたりしてイヤになり、日が暮れゆく中、この国も今までのアフリカと変わらないんだなあ・・・と思いつつ100キロ程先の最初の街へと向かうハメになった。
真っ暗になってやっと安宿が一軒だけある街に着いた。疲れた。国境のこともあり、この国の人間がまだ信用出来ず、ちょうど都合良くバイクが部屋の中に入れられたので、バイクをベッドの横に置いてシャワーも浴びずに寝た。

ジンバブウェ最初の宿はバイクといっしょ、メシはまあまあ
翌日、ハラレへ向け走り出す。昨日は暗くて分からなかったが回りの景色を見て驚いた。綺麗に開墾された畑が延々と続いていたのだ。ところどころ残るブッシュを見るとマラウイからずっとこのあたりまで元は同じ地形、土地だったようだ。
石がゴロゴロしていて水も少ない土地がマラウイでは一部だけ小規模な畑に替わっていて、モザンビークではハゲ山(手っ取り早く金になる薪を切り出し、この後何もしないから表土が流れてしまい、土地が荒れる)になっている。この3国の差は何なのだろう。それにもう一つ驚いたのは数キロおきに木蔭にベンチのある休憩所があり、何とゴミ箱が置いてあったことだ。道路にゴミ箱のある景色をアフリカで初めて見た(他の国には首都の街中にさえほとんどない)。そしてハラレに近づくにつれ更に驚きが増した。
4車線の道路の両脇に、日本の家とは比べ物にならないほど立派なヨーロッパ風の豪邸や大豪邸が延々十数キロも続いていたのだ。こんな豪邸街もアフリカに来て初めてで(ODAで儲かっている 《?》 ケニアでさえこの十分の一もない)、ヨーロッパを走っている気分になった。更に、ブラックアフリカに入ってジャガーとポルシェが走っているのも初めて見た。
ポルシェが走る、ということは道路がいい、ということだ。それは取りも直さず国の経済が機能していることでもある。この国は、国の経済力も国民の生活レベルも今までのアフリカより格段にいいようだ。

ハラレへの道。ワイルドドッグに注意、とある。りっぱな道路だ
CONTINUE
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