アフリカの風になって 8


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ハラレのメインストリート

ハラレ

 ジンバブエの首都ハラレは今まで通り過ぎて来たアフリカのどの街より洗練され、雰囲気がまるで違っていた。ちょうどオーストラリアの大きな街のような雰囲気だ。規模こそダカールやアビジャン、ナイロビにも負けるかも知れないが、何処の街より桁外れに綺麗だった。
 街の裏通りさえゴミはほとんど落ちておらず、街中には整備された立派な広い公園や、これまたブラックアフリカ初の美術館もあり、全面に芝生が植えられたラグビー場、サッカー場、競技場もいくつかある。そして決定的に違うのは白人が多いこと。街を歩いている人の半分は白人(それでも黒人政権になるのを嫌ってかなりの数が海外へ出てしまったらしいが)で、街に入る前の農場の風景や街に入ってからの街並みだけでもオーストラリアかヨーロッパを走っている気分になっていたのに、この街を歩いていたらやはりここはアフリカではないんじゃないか、と錯覚してしまった程だ。
アフリカには白人が作った街は多いが、多くの白人が今でもずっと住み続けているのはこの国が初めて(後に行くことになるナミビア、南アフリカ、ボツワナの一部もそうだが)だ。したがってホテルの経営者も白人が多く、言っちゃー何だが同じ値段の他国のホテルよりずっと綺麗だった。
 どうしてだろう、と考えたが、やはりこの違いは黒人と白人の今までの長い文化の差としか言いようがない。だからといって黒人は虐げられている訳ではない。先ほどの大豪邸にも黒人オーナーが随分いるそうだし、ベンツ、ジャガーに乗る黒人を何人も見た。第一、今この国は黒人政権なのだ。

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ハラレ市内

  さて、ハラレ。久しぶりのアフリカの都会を楽しんだり、手紙を出したりする以外にひとつやることがあった。数日前よりエンジンから異音が出ていて、その修理だ。大きなホンダの店を見つけて行ってみるがここではバイクを扱っておらず、違うバイクショップを紹介された。
 その紹介された店はドイツ系移民の人がやっていて、そこの若い白人メカニックに見せるとやはりカムチェーンからの音らしい。だが、部品はないと言う。この街にはXR600、XT、TT、DRとかの大型バイクと、XL125、XR100とかの小型のバイクはあるが、250クラスのバイクは走っていない。たまに見かけても古いXL250だ。これではどうしようもない。しかし、南アフリカまで行けば部品があるらしい。
 真っ直ぐ1000キロちょっと下ると首都プレトリアに着けるが、大きく寄り道をする予定なので6千キロ近く走らないと辿り着くことが出来ない計算になる。遠回りでも保つとは思うのだがイマイチ自信がない。それでどうしたものか、と聞くと彼は、
「十分保つよ、大丈夫だ」
と言ってくれた。
 その言葉にちょっとだけ勇気付けられ、やはり予定のコースを行くことを決めた。これがケニアやタンザニアのバイク屋の言葉だったら、イマイチ信用出来なかったかも知れない。それは、アフリカ系の人と、ヨーロッパ系の人とのバイクメカの知識、バイクに対する考え方の違い(前者は単なる仕事としてのバイク、後者は自らバイクに乗り、楽しんでいる。たぶん子供の頃から)というのをアフリカを走っていてずっと感じていたからだ。やはり小さい頃からバイクに親しんでいると、バイクの“気持ち”も分かってくるものだ。その“気持ち”で保つか保たないか、ここのメカニックは判断した、と思ったのだ。

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ハラレで会った南ア人2人、これからヨーロッパへ行くという

 アフリカを走っていていつも不思議に思っていたのはバイクに乗っている黒人をほとんど見かけなかったこと。当初、バイクは現地に住む白人の遊び用で、普通の人の給料ではとても買えない、という経済的な理由で黒人のライダーがいないのだろう、と考えていた。でもよく見るとベンツとかの高級車に乗っている黒人はどの国にも大勢居たのだ。ベンツに乗れてバイクに乗れない筈はない。そんなことを考えながらずっとアフリカを回って来て、また彼らの私のバイクに対するリアクションを見てきたりして、アフリカの“ 血 ”がまだバイクを欲していないのではないか、と思うようになった。
 アジアや中東、東ヨーロッパの貧しい国でも、年収の何倍もするバイクに乗っている人は少なからず居たがアフリカにはまだほとんど居ない。アフリカの若者がバイクを乗り回すようになるまではもう少しの時間がかかりそうだ。
  この街に3日もいるとすっかりここがアフリカであることを忘れてしまう。最新のアメリカ映画をやっているし、これまたアフリカに入って初めて小さいながらもデパートがあった。でも、やはりアフリカを走りたくなった。

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ハラレの彫刻家。素晴らしい石の彫刻で、でかいサイを買ってしまった

グレートジンバブエ

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グレートジンバブエの門。このコラムは→ こちら

 4日目、またアフリカに戻るため先へ進む。この日、何年も前からどうしても見たかった、この国のコインのデザインにも使われているグレートジンバブエという遺跡までの320キロほどを走った。
  以前テレビで見た時のイメージではダートをずっと走った奥地にひっそりとある遺跡、という感じだったのだが、行ってみたら遺跡の前まで立派な舗装道路が出来ていて、近くにはプール付きの高級ホテルまであり、ちょっとがっかり。しかし、山の上の遺跡から見た景色はすばらしく、永年の思いを遂げられ満足だった。300キロの遠回りをしただけの甲斐はあった。

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朝、テントから覗いたらサルがいた

  翌日、遺跡の見えるキャンプ場で野生のサルに起こされ出発の準備をする。8時出発。この日は次の目的地、ビクトリアフォールズまで行こうと思っていたのだが、雨に降られたりして時間が足りず、ようやく200キロ程手前のグアイリバーという所に暗くなって辿り着いた。
 小さな村で、とても宿があるようには見えなかったが村人に聞いたら一軒だけホテルがあるらしい。脇道に逸れ、しばらく進むと林の中にロッジ風の小綺麗なホテルがあった。入ってみると外国人とお金持ちそうな人ばかりで高級そうに見え、気が引けたが二食付の割には思いのほか安かったのでチェックインすることにした。
 一泊のつもりだったがこのホテル、とても居心地が良く、食事も旨く、気分もいいのでサファリツアーに参加したりしながらもう一泊することにしてしまった。

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ビクトリアフォールズ

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緑も多く、アフリカ1(?)のキャンプ場

 翌日、ビクトリアフォールズ着。キャンプ場へ行く。ここにはキャンプ場が3カ所あり、私が行ったキャンプ場が滝に一番近い所にある。木蔭も多く、温水シャワー、水洗トイレ付きという立派な設備のキャンプ場だ。だがここはアフリカ。時々イボイノシシの親子がテントの間を走り回っていたり、バブーン(マントヒヒ)が食料をかっぱらって逃げ回っていたりして、またそれもいい。
 ここでマラウイのマクレア岬で遇ったKLRのドイツ人青年と再会した。ヤツは、ハラレから北側のダートの道ばかりを選んで走ってきたらしい。2週間ほどここでゆっくりしてボツワナの砂漠へ行くと言った。
  このキャンプ場の客の九割以上は外国人の旅行者か白人だった。ビクトリアフォールズを観光する黒人の観光客もいたが全体の2割にもならず、どうして黒人の旅行者は少ないのか、と、またまた考えた。これも経済的なこともあるだろうが、そればかりではないような気がする。アフリカをずっと回って来てついぞ黒人、特にアフリカ系黒人の貧乏旅行者、バックパッカーというのも見たことがなかった。
 そもそもアフリカの都市部に住む人で、野生のゾウ、ライオン等を見たことがない人が大勢居るし、内陸部に住んでいる人で海を見たことがない人もいっぱい居るのだ。それどころかアフリカ人の大多数が一生自分の生まれた土地から出ずに終わるのだ。旅をする金があったら物を買う。遠くに行くのは仕事をしに行く時だけだ。
 知らない所を見てみたい、と我々は旅をする。が、彼らに言わせると知らない所を見てどうするんだ、となる。これは旅行中、地元の人に何度も言われたことだ。旅行という観念はまだ生まれていないらしい。思うに、これもアフリカの人々の“ 血 ”がまだ旅を欲しないからではないか。私は経済的3割、血が7割と分析しているのだが、どんなものだろう。

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世界一美しい滝だ。国境とバンジージャンプの橋が見える

 さて、ビクトリアフォールズ。とにかく凄い。たとえて言うなら日光華厳の滝の高さを倍にして300本ほど束にしたようなもの、と言えば分かってもらえるだろうか?その雄大な景色を半日かけ心に刻み込んだ。滝が削った滝壺の、滝との対岸に位置する崖の一番高い所に座ると目の前に連なって流れ落ちる滝が見え、そこから続く高い所は200メートルを超すという大渓谷が続いていくのが後ろに一望出来る。真下に見える滝壺を少し下ったその大渓谷に、一つだけ鉄のアーチ橋が架かっているのが見えた。交通量はほとんどない。その橋がジンバブエとザンビアの国境で、橋の高さ111メートル。下を流れるザンベジ川には前後数百キロ、橋がないのだ。
 キャンプ場に戻ると、何とこの橋から飛び降りる、世界最高高度のバンジージャンプがある、というのを聞いた。当然血が騒ぎ出し、見過ごす訳にはいかなくなった。翌日、下見に行ってみた。
 橋は、両国の中立地帯になっているのでパスポートを持ち、国境をバンジージャンプ見学の許可を貰って通り抜けて行く。対岸の国、ザンビアはつい最近まで社会主義だった国で、入国はうるさい上に国境警備は厳重だ。その中でも国境の橋は特別で、写真さえ撮れないのが普通だが、貴重な外貨が稼げるのだろう、ここだけはオープンになっている。
 さて、バンジージャンプ。やっていたのはバンジージャンプ発祥の地、ニュージーランド人とオーストラリア人とイギリス人でひと安心。はっきり言ってザンビア人とかジンバブエ人がやっていたら考え物だった。
 こう言うと偏見だ、と思うかもしれないが、これまで旅をしてきて、さんざんアフリカ人の大雑把さを見てきたのでこの最先端技術の遊びを見よう見まねでやっているアフリカ人なら命を預けたくない、と思っていたのだ。ただし、見物人はほとんどアフリカ人。ジャンプ代は70ドルと安くないから彼らにはとても出せない金額だが、彼らと話したらみんながみんな、
「タダでもやらない。金貰ってもイヤだ」
と言う。彼らは楽しそうに見ているが、案外、“金払ってまで怖くてバカなことを喜んでやっているヘンな白人どもを見物に来た”のではないか、と思えてきた。
 この日飛び降りたのは白人ばかり。男女半々だったが落伍者は無し。ほとんどが、
「 オーマイガーッ 」
と言って飛び降りていった。簡単に神様を使うヤツらだ。

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空撮その2.ジンバブエからザンビアの方向(左)。橋の下流(右)。ヘアピンカーブの峡谷が続く

 翌日、決行する。イギリス人だ、という青年が準備をしてくれた。彼に聞いたら、やはりザンビアに“ショバ代”を払っているらしい。私が払ったその内の何割かはそれに当てられるのだろう。当然アフリカの常識だと国の収入になるのではなく、国のお役人、もしくはこのあたりを“ショバ”にしているお役人の懐に入っているのだろう。まあそれはそれでいいが、いよいよジャンプ。
 足首をタオルで巻き、その上からナイロンロープで縛り、それと細いゴムを束ねた直径5センチくらいのゴムロープに繋がったナイロンロープをザイルで繋いだ。その間、彼は、
「止めるなら今の内だヨ。飛び降り台でションベンちびったヤツもいたし、飛び降りて失神したまま失禁してぶら下がっていたヤツもいたヨ」
とニヤニヤしながら言ってオドす。
 ところがどっこい、こちとらこういうことは体質上全く恐くないように出来ているようで、橋のヘリの“飛び降り台”に立っても平気だった。こうなると日本代表みたいな気になってくるから不思議なものだ。日本男児の意気を見せてやる、と彼に向かって、ニカッ、と笑ってやった。たぶん、本当に笑っていて顔は引きつってなかった、と思うのだが・・・。
 回りの人に手を振って飛び降りる。『オーマイガー』はイヤだし、『オッカサーン』もいくら外国でもこっぱずかしい。
 そこで考えた末、『シュワッチ』でジャンプした。が、やはり飛び降りてからの加速は1000CCバイクのフル加速どころの話じゃなく、視界も体も意識もが全く別世界に突入してしまい、さすがに落下中は腰が引けているのが自分でも分かった。
 昨日、キャンプ場に帰り、高校の物理の公式を一時間かかって思い出し、ゴムの長さを頭に入れて計算したら5秒ほど自由落下している勘定になった。その5秒が長い。ようやくゴムの感触が足首から伝わってきてゴムが伸び切ったと思ったら今度は上昇加速が加わってくる。無重量状態になると一瞬現実に戻り、橋の上の人に手を振る余裕も出た。そして何度か上がったり下がったりしてようやく本当に現実に戻った。何か、気分爽快。何度やってもいい、と思ってしまったほどだ。

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シュワッチ!私の勇姿

 余談だが、3日後に例のドイツ人ライダーが飛び降りた。見物に行けなかったのでキャンプ場に戻ってきたヤツに、どうだった?と聞いたら、ビビってずっと目をつぶっていたらしい。未知のダートに平気で行く度胸はあるのにこういう度胸はないようだ。笑ってやった。

  さて、橋から逆さにぶら下がった私は小便をチビることもなく、川に待っていたゴムボートに無事拾われ、更にそのまま急流を1日かけてゴムボードで下るラフティングをやって楽しんだ。

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激流を下る。最後にボートごと1回転した

 ここのキャンプ場にはバーがあり、夜はここでビールを飲むのが日課になっていた。ある日、ここで一人のシルベスター・スタローンに似たドイツ人青年と遇った。日焼けで腕と顔がズル剥けだった。向こうから話しかけてきたのだが英語がほとんど分からないらしい。普通ドイツ人は皆英語が堪能なので不思議だったが、よくよく聞いたら旧東ドイツの出身なのだと言う。旧東ドイツの教育には英語は無かったのだ。
  以前、ベルリンの壁が崩壊する前の東ヨーロッパを旅した時、よく東ドイツの青年に出会った。ゲルマン民族の“血”はヨーロッパ人の中でも特に強く旅を欲しているようで、西も東もドイツ人は旅が好きだった。
 ただし、この時の東ドイツの普通の市民の海外旅行といえば同じ東ヨーロッパの4カ国、すなわち、チェコスロバキア、ルーマニア、ブルガリア、ハンガリーしか許可されておらず、旅好きの彼らがかわいそうで同情したものだ。当時の東ドイツ人にとっての世界一周はたったの4カ国しかなかったのだ。
 ちょうど例のドイツ人ライダーが来て、彼に通訳をしてもらい話す。彼の仕事はトラックの運転手で、統一後、毎年必ず1回は海外旅行に出るようになったそうで、こんな暑い所は初めてらしい。それで焼き方が分からず、ズル剥けになったのだそうだ。さぞ統一されて嬉しかったろうと思う。来年はアジアに行きたい、と言っていた。
「今までの分を取り戻すのさ」
と言って別れる時、ニコッと笑った顔が忘れられない。

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バンジーの橋を渡る。ザンビアのイミグレオフィス

 数日後、バンジージャンプの橋を今度はバイクに乗って渡り、ザンビアに入国した。橋を渡るとあたりはいきなり寂しくなった。ザンビア側からの滝もすばらしいのに、こちら側はほとんど観光地化されていない。
 場違いなインターコンチネンタルホテルと中級ホテルが1軒、木彫りのみやげ物屋が数軒あるだけで商店もレストランも何もない。キャンプ場に行ってみたが、そこには緑も木陰もほとんど無く、客が一人もいない。何だこりゃ、数キロ先の賑いが嘘のようだ。
 ここからナミビアへ抜けるつもりだったのに、何かこの国を走るのがイヤになってきた。入国の時、税関でのバイク通関をさんざん待たされ、その時の役人のイメージも悪いし・・・。それよりもキャンプ場で聞いたボツワナルートを急に走りたくなった。やっぱり帰ろう。

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ザンビア側、滝の上

  翌日、再び橋を渡り、ジンバブエに再入国。元のキャンプ場に戻った。この日、ちょうどクリスマスイブで、昼間からみんな酒を飲み賑わっていた。さっそく仲間に入る。やっぱりザンビアのあの静けさは不自然だ。ツーリストに聞いてもあまりいい国じゃないと言う。昼間から酔っ払って楽しかったが、そう長居もしてはおれない。もう一日だけのんびりしてボツワナへ向け出発することにした。

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ボツワナを走る。数10キロ先の滝の水煙が見える

ウエルウェッチア

 キャンプ場から80キロも走るとボツワナ国境に出た。国境は割と簡単に通過することが出来た。ジンバブエを含めてこの国から先、日本人はビザが不要になり、随分楽になる。
 ボツワナ国境を抜け、少し走ると小さな町に出た。そこを過ぎると道はダートになり、国立公園の中を走ることになった。
 そこを100キロも走らないうちにナミビアとの国境に出た。手続きは簡単。他に旅行者は誰もおらず、通過者名簿を見ると今日は私で4人目だった。ここまで100キロ以上に渡って人家はなかったが、ナミビア国境に小さな店が2軒あった。ここでコーラを飲み出発する。

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ボツワナ・ナミビア国境

 細い砂のダートを一時間も走っていたら雨が降ってきた。カッパを着込み再び走り出すと、雨は更に激しくなった。今まで砂の多いダートだった道にみるみる水が溜まってゆく。スピードを落とし慎重に走る。地層の関係か、時おり粘土状のドロドロでツルツルの路面が表れた。これ以上降ったらマズイ!と思いつつ走っていると、とんでもないモノが出現し、思わずコケそうになった。
 緩いカーブを曲がり切ったとたん、目の前30メートルくらいの所にでかいゾウが立っていたのだ。思わず急ブレーキ。ゾウと目が合う。鼻を振り上げ、『パオーン』と叫び、こちらを威嚇している。恐いという感情はなかったが、思わず石になってしまった。
 そのゾウが威嚇している間に大きいのから小ゾウまで20頭以上が道を横切っていった。石になった体はカメラを出す作業を一瞬遅らせた。カメラを構えた時には、すでにあのボスらしき巨大ゾウが森に入っていく所だった。残念・・・。

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ブッシュマンの村と、街のガソリンスタンドで遊んでいたブッシュマンの子供たち

  この後、雨は止まず、遂にドロ沼状態と化した路上で滑ってコケた。たまたまブッシュマンの小さな村(本来は遊牧民である彼らを国では定住させる方針であるようだ。
 ちなみに現在の日本では“ブッシュマン”という呼び方は、映画のタイトルも変えたくらいで差別用語であるらしい。こちらでは地図にも道路標識にも“ブッシュマンランド”と書いてあるし、地元の人も、本人達でさえ“ブッシュマン”と呼んでいたのに、どこが悪いんだろう?)の前だったので、村人が出て来て起こすのを手伝ってくれた。

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ナミビアの原野にあった世界最大サイズの鳥の集合住宅。大きいのは5mにもなる

  2日かかって雨のドロドロダートを抜け、エトーシャ・ナショナルパークで2日間のんびりした後、海岸の街スワコプモンドへ行く。ここでガーナ以来、久しぶりに大西洋に沈む夕日を見た。そして翌日、1993年が暮れた。

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スワコプモンドの夕日と海岸リゾート

  この街は海岸リゾートで、ハラレより更に白人の割合が多い。南仏あたりの街のようだ。ここに来た目的はひとつ、ウエルウェッチア(日本名、その名も奇想天外)という不思議な植物を見るためだった。この植物は世界中でこの街近くのナミブ砂漠にしかおらず、人の背たけ程に育つまで千数百年もかかるという気の永い植物らしい。
  元旦の昼、出発。道はすぐにダートになり、砂漠に入る前のアルジェリアのような風景になった。そして数十キロ走るとあっけなくそれが居た。小さいのは10センチ、大きいものでも1メートル位のが広い砂漠に点在して居る。更に30キロほど進むと世界最大のそれが居た。何か人に会いに来た気分になったのは何故だろう。やはり実際見ても不思議だった。何故か去り難く、そこに2時間居た。

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この先にあいつが、いる。詳しくは→ ウエルウェッチア

  この日の夕方、首都ウイントホーク着。この街も綺麗で大きなショッピングセンターやデパート、大きなホテル、それにアフリカに入ってエジプトで一度だけ見たきりのケンタッキー・フライドチキンの店を見つけた。何とマックもある。アフリカの街とは思えない景色だが、旅行者としては面白い街ではない。白人の割合は、更に多くなっている。それでも何となくホテルでのんびりしてしまい、2泊した後、1500キロほど離れたケープタウンまで一気に下るべく出発した。

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この不思議な木の話は→ こちら

ケープタウンへ

 この日以降連日気温は45度を越えた。ところどころに低い潅木があるだけの砂漠地帯を一路南下する。気持ち良く飛ばしたいが、エンジンからの異音が大きくなっているので騙し騙し80キロ程でゆっくり走る。
 2日目、遂に南アフリカとの国境、砂漠の中を流れる国境の川、オレンジ川に出た。川といっても干上がりそうな細い川だが雨季には大河になるのだろう、両岸の土手は200メートルくらいの幅があり、そのたもとで入国手続きを済ませ、橋を渡った。
 南アに入ると岩山を縫うように続く道になった。回りはガレ場、気温は45度を越えている。そんな中をひたすら走る。そして道から見える景色に、ほんの少しだけだが緑が見えるようになった。時おり山の谷間にオアシスのような農場が現れる。どうやら自然のオアシスではなく、山の遥か向こうから用水路を作り、水を引いてきて造った人工のオアシスのようだ。水もないサバンナ地帯の荒れた土地を切り開いた農場は他のアフリカの国には何処にもない。これらはヨーロッパ人の入植者が造ったものだ。先人の苦労が偲ばれた。

 3日目、道路は片側四車線の、日本のそれよりも立派な高速道路になった。もちろん無料だ。しばらく走ると遠くに高層ビルが立ち並ぶ街が見えきた。街の規模、雰囲気が今まで走って来たどのアフリカの街とも違うように見える。どんな所なのか、気持ちが高鳴る。エンジンからのノイズは凄いが、バイクも何とか耐えてくれたようだ。

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ケープタウンの港から街を望む。テーブルマウンテンからの雲が流れ落ちている

  午後、やっとケープタウンに着いた。まだ行ったことはないがサンフランシスコのように坂の多い街で、もちろんケンタッキーやマック、ピザハットもある。あまりにも街が大きく、雰囲気も違い、アフリカに慣れた旅のカンが狂ったのか、暑さで頭がイカれたのかホテルが探せない。
 諦めてツーリストインフォメーションに行って地図を貰い、ようやく一時間以上もかかってホテルを捜し出した。この日は疲労と熱射病にやられたらしく、そのままダウン。メシも食えず、ドロのように寝てしまった。
 翌日、今度はバイクがダウンしてしまった。原因は、後でバラして分ったのだが、ユルユルになったカムチェーンがカムスプロケットをジャンプしてタイミングがずれ、ピストンがバルブを突き上げたことだった。
 ただラッキーなことに、動かなくなったのがホテルの前。しかも、いいバイクショップを捜し出し、修理の予約を入れ、一旦帰って来たところだったのだ。砂漠の中だったら大変だった。そう言えば以前、オーストラリアでエンジンが壊れ、止まった所も前後数百キロ人家がない砂漠の真ん中にあるガソリンスタンドの前だった。相手は機械だけど、何か意思が通じていて、修理が出来る所まで根性で走ってくれた、と思わずにはいられない。

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エンジンをバラす。フレームにもクラックがひとつ

 この時はしょうがなく、バイクショップのオヤジさんに電話してトラックを出してもらい、店に運んだ。
 このオヤジさん、ドイツからの移民で、第二次世界大戦で荒廃したドイツに見切りを付け、バッグ一個を持ってこの土地に来たのだそうだ。その時はまだ十代だったと言う。そしていろいろな仕事をして金を作り、兄と共にバイクショップを出したのだそうだ。波瀾万丈の人生だったようだが、今では街を見下す高台に家を持ち、娘も嫁ぎ、すっかり好々爺になっておられる。
 オヤジさん、突然現れた日本人に何かと気を使ってくれてバイクを運んだ後、テーブルマウンテンとか港を案内してくれ、家にまで招待してくれた。いろんな話を聞かせてくれた。昔のケープタウンのこと、昔の南アのこと、自分のこと、趣味のこと・・・。南アフリカの歴史を50年近く見てきたオヤジさんにマンデラが大統領になると思うけど、と聞いてみた。
「時代だからしょうがない。今の生活が変わらなければ文句ないよ。でも、この国は白人が作ったんだ。黒人に全部返せ、と言われたら・・・、問題だね」
と穏やかに、だが、少し悲しそうに語ってくれた。

 翌日から毎日店に通って自らの手で修理をすることにした。南アには大型バイクはほぼ何でも走っているのに250CCとなると古いXLかNXしか見かけない。ヨハネスブルグから部品を取り寄せることが出来たが、結局どうしても手に入らない部品がいくつかあり、日本から送ってもらうことになった。
 その間、各部を分解し、ついでにオーバーホールをした。前回オーバーホールしたパリからすでに4万キロ近く走っている。ちょうどいい頃だ。この店の作業場にはドイツ製の工作機械が何種類か並んでいて、さすがに完璧主義者のドイツ人、と感心していたら何と、手に入らない部品はその工作機械で作るのだそうだ。さすがである。その機械、工具を使わせてもらい、作業を進める。
 時々オヤジさんや3人居るインド系のメカニックに手伝ってもらいながら、朝から夕方まで作業をした。楽しい毎日であった。バイク好き、と言うだけでここまでやらしてくれるのは外国ならではだ。日本では、悲しいことだが、まず有り得ないことだ。ありがたい。
土・日は 『独りじゃ寂しいだろう』とオヤジさん自作のサイドカーで喜望峰までツーリングに連れって行ってくれたり食事に誘ったりしてくれた。感謝、感謝。

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テーブルマウンテンから流れる雲。詳しくは→ こちら

 毎日、店とホテルの間を歩いて通っていたのだが何度かフェラーリとロールスロイスを見た。アフリカに入って初めてのことだ。そのことをオヤジさんに言うとフェラーリの正規ディーラーに連れて行ってくれた。
 小さな体育館ほどのスペースにフェラーリがずらっと並び、整備されている。表にはジャガーEタイプ、ベンツ350SLなどというヴィンテージカーも置いてあり驚いた。たぶん、こんな車が走っているのはアフリカではこの国だけだろう。ジンバブエやナミビアではフェラーリやロールスロイスにはさすがにお目にかからなかった。メカニックの腕もなかなか優秀のようだ。
 車だけじゃなく、港に行くとずらりと高級ヨット、クルーザーが浮かんでいてそのうちの1割程度はインマルサット(衛星を使った情報システム、電話や、新聞を引き出すことも出来る。日本では、外洋を行く船にしか積まれておらず、二千万円程もする)も装備した豪華船だった。驚いたことに黒人のオーナーも多いと言う。アパルトヘイトの国、と言うイメージはとっくに崩れていたが、白人よりいい暮らしをしている黒人が少なからず居る、と言う事実を目のあたりにすると日本の報道のいい加減さを改めて感じてしまった。
 街を見下ろす高台には小綺麗な家々が並び、洒落たレストランも多い。この街ではスラムも見なかったし、ホームレスも東京の方が余程多いくらいだ。回りには自然が広がり、人々もあくせくしていない。この国は、いや、少なくともこの街の人達は日本人より遥かに豊かないい暮らしをしているように思えた。

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喜望峰の前にて。詳しくは→ 喜望峰とアグラス岬

アフリカ最後のRUN

 二週間後の夕方、遂にバイクが復活した。翌日を試運転と準備に費やし、その翌日、お世話になったオヤジさんとメカニックのみんなに見送られ、出発する。儲かりもしない客を温かく迎えてくれてありがとう。みなさん、いつまでもお元気で・・・。

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みんな、ありがとう

 そうして17日間も滞在してしまったケープタウンを後にして一路東に向かう。高速道路を110キロ程走り、右に折れ、30分も走ると、アフリカ最南端のアグラス岬(喜望岬ではない)に出る。岬に向かう道路沿いには別荘がずらりと並び、大型ヨットとクルーザーが浮かんでいた。どうしてこんな田舎で、こんなにいい暮らしが出来るのだろう、と不思議だった。その上、別荘のオーナーらしき黒人を見て、知識としては知っていたが目の当たりにしてみるとこれも不思議な光景だった。
 岬自体は最南端というだけであえて見るべきものはなく、写真だけ撮って再び北上する。

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ダチョウに試乗。手羽を持って運転する。かなりのパワーだ

 この日、夕方になって南ア一の駝鳥の繁殖地であるというオーツホーンという街に着いた。宿探しのため街を走っていると、“ B&B ”という看板を見つけ、行ってみる。
 “B&B”というのはベッド アンド ブレックファストの略で、イギリスの民宿のことだ。この国はヨーロッパ風の造りの街が多いが、そう言えばこの街はイギリス風だ。2軒目のイギリスからの移民というオバチャンの感じが良かったのでここに泊まることにした。中に入ると部屋の造りからインテリアまで全くのイギリス風。以前泊まった本場のB&Bを思い出した。
 それにしてもこのオバチャン、初めて会った外人の私に平気でカギを預けて出かけてゆく。全く警戒心ゼロ。こっちが心配になるくらいだが古き良き時代のイギリスがまだ残っているのだろう。
 夜、オバチャンに勧められ駝鳥ステーキを食いに行く。出てきたものは一見ビーフ風だったが味はもっと淡白で旨かった。
 翌朝、出発しようと思っていたらまたオバチャンに勧められ、駝鳥牧場に行ってみる。ここでは駝鳥に乗って走ることも出来た。昼前、オバチャンに見送られ次の目的地、キンバリーへ向け出発する。

 ケープタウンあたりからずっと続いている大規模農業の大穀倉地帯の中を走る。オーストラリアの穀倉地帯を思い出したが、道路はずっとこちらの方が立派で交通量も少なく、快適だ。こんな景色もアフリカでは始めてで、この国はいろんな意味でアフリカであってアフリカではない。

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世界最大の穴。ダイヤを堀尽くした跡

 翌日、キンバリーでダイヤモンド博物館を見て出発しようとしていたらマンデラTシャツを着た若い男に話かけられた。選挙の運動員らしい。
「 日本人か、マンデラを知ってるか?」
から始まり、
「 マンデラどう思う?」
とか、いろいろ聞いてくる。そして、
「 マンデラが大統領になったら、オレ達も白人みたいな家に住めるんだゼ」
と言い出した。
 もし、そうなったら大変だが、そんな言い方でやれば選挙運動も簡単だろう。何せマンデラに投票しそうな層の大部分は教育もなく、いいことは何でも信じてしまう人達なのだ。マンデラがこういう選挙運動を指導しているかどうかは分からないが、少なくとも末端ではこういう理解の仕方をしているのは間違いない。
 そう言えばこの頃テレビでANCの事務所で大量の武器(旧ソ連製のAKー47)が見つかった、と報道していた。当然マンデラは『私は知らない』とテレビでは言っていたが・・・。
 少しの間話をして、この青年からマンデラステッカーを貰い、アフリカの終点プレトリアへと出発した。

 その前に、ちよっとだけ南アの中にあるレソトという国に行ってみた。この国は全土が山の小国で、回りは全て南アに囲まれていて平地はほとんどない。経済の全てを南アに頼っている、という貧しい国らしいが、見た感じ西アフリカや東アフリカよりずっと生活状態は上のようだ。スーパーマーケットやファーストフードの店もある。 
 ただし、何故かこの国のドライバーの運転はムチャクチャで、僅か半日で2度も肝を潰されてしまった。こんなことはインドでの体験以来のことだ。その割には見るべきものもなく、昼メシだけ食って出発。再び南アへと戻った。

 レソトを出て少し走ると再び片道3車線の高速道路になった。そしてヨハネスブルグに近づく頃、高速道路の両脇に見渡すかぎりのスラムが見えてきた。拾ってきたようなベニヤ板とトタン板で作ったバラックが延々と続き、回りはゴミが舞っている。日本で報道する典型的な南アの黒人の生活だ。
 後で聞いた話だと、周辺の貧しい国から流入して来た経済難民が無許可で住み着き、どんどん広がっているらしい。それにしても怖くなるくらいの規模だ。これもアフリカ1かも知れない。

 そして、そこを通り過ぎ、百数十キロ走り、暗くなって遂にアフリカの終点、プレトリアに着いた。宿が見つからず夜中までウロウロしていたらBMWの古いバイクに乗る白人の青年に拾われ、この日は彼のアパートにやっかいになることになった。

 翌日から、次の大陸、南米へと渡るための準備を始めた。エアカーゴ会社を捜すべく、何度もヨハネスブルグに行ったりしながら準備を進めてゆく。その間の日曜日、BMWの青年のグループに誘われ、アフリカ最後のツーリングを楽しんだ。
 この日はバイクの集会があるらしく、150キロ程離れた所にあるダムまで走った。そこに着くとアフリカ全土から来たのでは、と思わせる程多くの大型バイクが集まっていて、その数、数百台。中には日本でもあまり見かけないような大型高級バイクも多く、ヨシムラ、モリワキ等の高級パーツを付けたバイクもある。ここに居たらとてもアフリカに居るとは思えない錯覚に陥ってしまった。全くのヨーロッパかアメリカだ。
 参加者は、中年のカップルも多く、バイク文化はやっぱり全く欧米と同じのようだ。もちろん、参加者は全員白人であった。

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プレトリア市内

 この国を離れて1カ月後、大統領選挙があり、ネルソン・マンデラが大統領に選ばれた、ということを南米を旅している時に知った。このことを南アで出会った人達はどう感じたのだろう、と遠く離れた南米で思った。バイクショップのオヤジさん、B&Bのオバチャン、マンデラTシャツの青年、みんな満足しているのだろうか、と。

 そして、わが国がこの国に多額の援助をする、というニュースも聞いた。それを主に貧困層の住宅整備に使うらしい。マンデラTシャツの青年が言ったことが思い出された。それと同時に豪邸やヨットも頭に浮かんだ。日本ではあまりにも、“アフリカには何処にでも貧困と飢餓が蔓延している”というイメージが強すぎやしないか。
 日本人よりいい暮らしをしている人が大勢居る国に援助をするのもいいが、それが政権維持のためだけに使われないよう見続けていかなければならないだろう。案の定、というか、黒人同士の殺し合いが急増しているという。白人と黒人の対立はよく目立つのでニュースになるが、黒人同士だと目立たないからか、面白くないからか、報道する側に黒人対白人の対立、という前提の図式があり、黒人対黒人だとそれに反するからか、それが日本人には理解出来ないからか、あまりニュースにはならない。
 日本に居た時は分からなかったが、日本ではかなり片寄った情報しか報道されていないようだ。南アで出会った人達を思い出す度に大統領は誰でもいい、部族間の利権争いだけはしないでほしい、南アだけは普通のアフリカの国に逆戻りしないでほしい、と願うのみだ。

南米大陸へ

 プレトリアに着いて1週間後、長かったアフリカ大陸の旅を終え、次の目的地南アメリカ大陸へ旅立つことになった。
 アフリカ最後の夜、なかなか寝付くことが出来なかった。思えば、モロッコに入国してから今までいろんなことがあった。いろんな所を通り過ぎてきた。誰もいない道をひたすら飛ばしていた時、このままずっと時速90キロの風になってアフリカ大陸を吹き抜けたい、と願いながらアクセルを回していたのを思い出した。
 そして、遂にここまで流れ着いた。振り返るとほんの少しはアフリカの風になれていたような気もしてきた。

 翌日、プレトリアから60キロ離れたヨハネスブルグ・ヤンスマット空港近くのエアカーゴ会社までの高速道路をかみしめるように走った。何度も往復した道だが、この時は本当に風になった、ような気がした・・・。

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いつものように荷造りをいっしょにやった

 会社の倉庫に着いたとたん大雨が降り出してきた。アフリカが別れを惜しんで泣いている、にしては大袈裟だが、最後までついていたようだ。よくここまで無事に走って来れたものだと思う。感無量。
 そのままバイクを箱づめにするのを手伝う。バイクをパッキングしながら、よく頑張ったな、また南米走ろうな、日本に連れて帰るからな、と自然に話しかけている自分にふと気付いた。そしたら、一緒に作業をしていた黒人のニーチャンにもそれを気付かれてしまったのか、ニヤッと笑われてしまい、思わず恥ずかしくなった。
 バイクのトリップメーターは、アフリカを3万8000キロ走ったことを示していた。

 夕方、愛車を倉庫に残し、ひと足先に空港へゆく。出発は七時間後。空港に着いてすぐにビュッフェで夕食を取ったら意外と高く、この国の通貨、ランドを全て使い果たしてしまい、チェックインした後コーヒーも飲めず六時間、じっと、ただひたすら待った。それは長いアフリカの旅を振り返るには十分過ぎる時間であった。

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ごくろうさん。南米をまた走ろうな!

 そしてその日の深夜、私を乗せたヴァリクブラジルエアーのボーイング747は、数多くの思い出を残したアフリカを後に、南米、ブエノスアイレスへと向け飛び立った。

 窓に顔をくっつけ、食い入るように外を見た。アフリカの明かりが窓の闇の中に吸い込まれてゆく。そのうち雲が窓の外に流れたと思ったら、あっという間にアフリカの姿が網膜から消えてしまった。さようなら、アフリカ。またいつの日か、きっと帰ってくるからな・・・。

 

アフリカ編、終り
 
南米へと旅は続く