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インド・パンジャブ州は、パキスタンへ通ずる唯一の国境が開いている所です。列車の中でインド兵に一晩中いびられ、ほとんど寝られぬまま早朝、列車はインド最後の街に到着。バイクを下ろし、そこから数キロ離れた国境へと向かいます。
国境でもカッカした頭に追い打ちをかけるようにさんざん意地悪され、国境ラインを越える時、インド側を振り返って、「バカヤロー、クソインド人、死んじまえー!」と叫んでようやくパキスタンへと入国。最初の街ラホールへと向かいました。
ラホールの街を歩いていると、よく「 お茶飲んでけ
」と声を掛けられました。日本人には好意的です。インドでも同じように声を掛けられましたが、ほとんどの場合、最終的には、何か買ってけ!ということなのですが、パキスタンにはそれがありませんでした。これが一番の驚きでした。
ここに数日間滞在し、北を目指します。2日かけてフンザまで走り、ここを拠点に中国国境を見に行くことにしました。
BADSHAHI MOSQUE
1674年、ムガル帝国、オーラングゼーブ皇帝により建造された。 左右対称で美しいモスクで市民の憩いの場所でもある。
MARKET IN LAHOLE
この国にはデパートもコンビニもなく、買い物は全て市場へ出かけることになる。
何処の市場も活気に満ちていた。(上左)ヨーグルト屋のオヤジ。埃っぽかったけど美味かった。
(上右)何と石焼き芋屋。ここ以外、なぜか世界中で他ではエジプトでしか見ることができなかった。

カラコルムハイウェイは中国へと続く唯一の道ですが、そのルートの最高地クンジュラブ峠は、なにせ標高4900メートル。通れるのは夏の間、3カ月ほどだけです。標高2400メートルのフンザから往復400キロ弱、標高差約2500メートルの日帰りの旅に出かけます。
インダス川に沿って道は続きますが、川は道路から遙か下。時々トラック、バスが落ちていてドキッとさせられます。ガードレールなし、崖崩れあり、人家なし、行き交う車なしと心細い道ですが、眺めはこの世とも思えぬ絶景。途中K2なんかも拝めて目からウロコが落ちました。苦労して来た甲斐があった、というもんです。バスの旅ではちょっと味わえないでしょう。バイク万歳!世界最高のツーリングルートです。
KARKORAM
HIWAY
道路標識には北京5425キロ、とあった。小さな村の近くを通ると少年達がこのあたりの名産、杏を売りにやって来た。絵に描いたような扇状地。バイクのすぐ先は崖で、
遥か下はインダス川。標高約3000メートル。
クンジュラブ峠。標高4900メートル。ここから先は中国だが、辺りにはなーんにもない。
イミグレーションは100キロほど先なので無許可で中国を走る。7月も終わりなのに気温5度。
空気が薄く、人間もバイクも苦しい。平地でもフルスロットルで40キロしかスピードが出ないのだ。
DRIVE IN
ファミレスはもちろん、都市以外はレストランさえもない。いつも屋台のめし屋で
トラック野郎達といっしょに食事をした。派手なトラックである。食事はいつもカレー。
これがまた美味いんだなあ。左の豆カレーとチャパティ、最高だったなあ。
HUNZA
長寿の村として有名な杏の里フンザ。この国では酒は御法度だが、この村だけで造られる、
フンザパーニーと呼ばれるワインのような焼酎のような酒だけは大目に見られている。
PESHAWAR

ペシャワールから数10キロ先からはトライバルエリアと呼ばれる、警察権も及ばない地域になります。パシュトゥーン族と呼ばれる人達が納め、自治権が認められているのです。このエリアに入ったすぐの所にダラという村がありますが、ここはアレキサンダーの頃から武器を造っていた、という村で、その武器の力で遙か昔から自立していた、と言われています。
この当時 (‘87年
)ちょうどアフガン戦争の真っ最中。ソ連軍とムジャヒディンと呼ばれるイスラム戦士が戦っていた頃で、タリバンが現れるずっと前のことです。アフガンにも同じ部族の人々が住んでおり、誇り高い部族としてはその人達を支援するのは当然のことだったのです。そこへ世界で始めて(
たぶん )単身バイクで乗り込みます。2006年7月にこの文を書いていますが、ここに写っている人たちは今、どんな暮らしをしているのでしょう?タリバンの影響でどう変わっているのでしょう?もう一度訪ねてみたい。誰かスポンサーになって下さい。
DARRA
ダラのガンショップ。ダラ製の銃に混じり、なぜか世界中の古い銃が集まっていた。
シュマイザー、ルガー、ブロウニング、ベレッタ、マウザー、
(下)ダラ製トカレフ、何と南部14年式、ブロウニング380、ダラ設計ピストル、分かったかな?
ここではショットガン、ライフル、ピストルといろいろ造られているが、これがAK47の手造り現場だ。
ライフリング削り(左)と木工作業。
TRIBAL AREAS
ダラから山をいくつか越えた所にある村。ここには山一つ越えたアフガニスタンからムジャヒディンが休憩にやって来る。外国人として始めてバイクで訪れ(たぶん)村長宅に招待された。
右は村長宅にいた美少女。6歳くらいだったが、10歳を過ぎたあたりからベールを被り、
顔を見せてはくれない。今は25歳を過ぎているはずだ。
DShKを試射をした時のスナップ。パイロット用AK74とグレネードランチャー付きAK74、
同AK47、ドラグノフ狙撃銃、AGS−17。分かるかな。AGS以外、全部使えます。
ダラから数10キロの所にあった村。ここは何とドラッグの村だった。左がオピウム。
中がアフガンからロバに背負われて運ばれてきた原料と製品のハッシシ持っておどけるオヤジ。
右の餅つき器みたいな物で原料を搗きます。私はキライです。
北部パキスタンから再びラホールに戻り、いよいよイランへと向かいます。気温も再び40度を超し、遂に路上温度50度を超しました。西へ向かうに従い緑が徐々に少なくなり、遂に休める木陰も無くなりました。辺りは荒涼とした姿が広がっています。そんな最初の街がムルタンです。
MULTAN
パキスタン風ハンバーガー (
チャパティで山羊肉を挟んで食う )屋。串焼きもイケます。
ナッツ屋(このあたりの特産)と石けん屋。
QUETTA
パキスタン最後の街クエッタ。いつものバザーの風景。雑貨屋のオネーチャン(
左 )若い女性の店番は珍しい。
妖しげな薬を売るオヤジ(中)生きたトカゲがいた。精力剤か?
ナッツ屋のオヤジ、実は闇両替屋で、ここでイランリアルを手に入れた。
イチかバチかだったが適正レートだった。正直者!砂漠の街は砂に煙っていた。
クエッタから先はヨーロッパまでの最大の難所、バルチスタン砂漠です。当時まだ道はなく今でも無いらしい)、砂漠の中を走ります。ただし、意外と砂は硬く、約200キロのダート+約400キロの道なし砂漠を1日半で越え、イランとの国境の集落へ出ました。
BALUCHISTAN
クエッタの出口にあった道しるべを見て思わず溜息が出た。何とロンドン9476キロとある。
まだヨーロッパは遙か遠い世界だ。この時、インドをスタートして既に5カ月も経っていたのだ。
見渡す限りの砂・砂・砂。行き交う車は無し。ただ、意外と走り易く、景色を楽しむ余裕もあった。
右はイランとの国境施設。
WHAT IS
PAKISTAN?
日本やヨーロッパではインド人よりずっと評判が悪いパキスタン人だが(
ちなみに航空会社もパキスタンエアーの方がキタナイらしい
)、私にはずっと親しみがあった。騙されたこともなく、泥棒にも会わず、ポリスや国境の公務員とのトラブルもなかった。
インド人は、個々が本能の赴くまま好き勝手やっていて、正に烏合の衆という感じだったが、この国民は秩序があるようだった。それが宗教から来るものか、教育(
学校や村、町の共同体としての教育
)から来るものか分からないが、ともかく、アフガンゲリラの村へ単身行った時も何の不安も無かった。むしろインドで人々に取り囲まれた時の方が恐怖を感じたものだ。
インド人との違いは、商売が下手( いい方に取ると正直、ガメつくない
)、共同体( 家族、村、部族等 )の繋がりが強い、乞食がいない(
イスラム教だからだ
)、運転がマトモ、こんなところか。ちなみにこの国で一番ウケる話題は“
インドの悪口 ” だった 。
この国では日本人は好意的に受け止められていた。日本のことを知っている人が多く、私が日本人と分かると“
ヒロヒト
”のことを聞いてくる人が何人もいて驚いた。ちなみにその次に知られている日本人は“
猪木ペールワン ”( 分かる人は分かりますね!)だった。
最後に、核実験のこと。この国のインド嫌いを肌で感じると、肯定するわけではないが、分からないこともない。インドのこととなると、分離独立戦争の時からの敵対心を引きずっていて、後先も考えず、感情的になってやってしまったのだろう。絶対に仲良くなり得ない両国だが、この先どうなるか心配している。
TO IRAN
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