アルゼンチン人

 それでも何とか英語の分かる人に教えられ、やっとのことでバス乗り場に辿り着いた。市内行きのバスを探すのだが、そこでも外国人が多く乗るシャトルバスなのに英語が全く通じない。英語の分かる観光客に手伝ってもらい、ようやくチケットを買ってバスに乗り込むことができた。
 バスが動き出し、ようやく一息ついた。高速道路を走るバスの窓から外を眺めると外は抜けるような青空が広がっていたが気持ちは晴れない。この分だとバイクの通関がとんでもなく大変になりそうな予感がしたからだ。
 そんなことを考えながら行き交う車を見ていると、ふとこの国には日本車がほとんど走っていない、ということに気が付いた。大部物はフランスとイタリアの車。市内までの20数キロの間で、数えたら日本車は30台も走っていなかった。
 今まで走って来た、社会主義国の一部以外では日本車の割り合いが最も少ない国だ。ベルリンの壁崩壊前の東ヨーロッパの国々の割り合い程しかなく、今まで走ってきた社会主義国以外ではインドの次に日本車の少ない国かも知れない。社会主義でもないのに何故だろう。もしかしたら一筋縄ではいかないトンデモナイ国なのかも知れない、というイメージが広がってきた。

  

ブエノスアイレス市内。近代的な街、アルゼンチン人に言わせると南米のパリ、だそうだ。  

 街の中心、と言うところで降り、ホテルを探す。ホテル探しの本能は南米でも通じるようで、とりあえずちょっと高いが英語の通じるホテルをすぐ見つけ、チェックインして街を歩く。
 町並みは石造りの立派なビルが整然と建ち並び、石畳が続いていてパリを少し古くしたような感じで悪くはない。先ほど車は日本車が少ない、と書いたが、市内を歩いていたら見かけるバイクのほとんどは日本製だった。XR、XT、XLR、セロー、日本で走っているバイクはほとんどある。 それどころか、日本にない、鉄タンクのXR、NX350サハラ(セル付)、DR350などというのも走っている。それに値段はやたら高くて日本の2〜3倍もするようだ。バイクはアフリカと同じようにやはり金持ちの道楽らしい。

 翌日からバイク捜しを始める。送り先の会社はすぐ見つかり、行ってみたら輸出入業務をやっている会社のくせに英語を話せる人間が一人しかいなかった。
 その英語を話す従業員も英語は片言で、お互い理解するのに時間がかかったがどうやらまだ来てないらしい。約束と違い、不安になったがどうしようもない。
 仕方なく待っている間、市内観光をする。街の中心部には映画館がずらっと並ぶ通りがあり、何と毎日オールナイトでやっている。 それ自体は治安がいい、という証しであり良いことなのだが、普通の店の営業時間は極端に短い。午後にはシエスタと呼ばれる昼休み(昼寝?)が2、3時間か必ずあるし、夕方は6時にはレストラン以外は全部閉まってしまう。おまけに、土曜は半ドン、日曜は映画館とレストラン以外は全部休みなのだ。不便でしょうがない。仕事をしている人はいつ買い物をするのだろう。ヨーロッパも日曜はほとんどの店が休みだが、ここのようにシエスタがあるのは、同じくラテン系の民族の国、スペイン、ポルトガル、イタリアだけだ。
 そして、面白いことに、というか当然というか、シエスタのある国は何処も経済状態が悪い。スペイン、ポルトガル、イタリアはEC統合の足を引っ張っているし、昭和20年、30年代は景気が良く、敗戦でボロボロの日本に対して多額の援助をしていた、というこの国もその後は逆に経済ボロボロ、年間インフレ率数千パーセントというまでになってしまった。数年前、1ドル=1ペソの固定レートにしてからようやくインフレは収まったものの、いつ元に戻っても不思議じゃないようだ。(’02年、やはり固定レートは破綻し、インフレと失業率の増加が再びこの国を襲っている)
 それにしてもこの国は物価が高い。平均したら日本より安いが、レストランでの食事、酒類、本、車、電気製品等は日本より遥かに高い。
 例えば、バイク、車は日本の2〜3倍もするし、缶ビールは酒屋で買っても1本2ドルもし日本と同じく世界最高級の値段だが、ファーストフードの店でハンバーガーとコーヒーポテトを頼むと7〜8ドル(この時は1ドル110円程だった)もし、日本より高い。今まで通って来た街では、北欧の国々の物価の高さは別にして、パリと同じ位の高さだ。
 貧乏旅行者には辛い国だ。見る所が多く、楽しい街ならまだいいが、興味を引く見どころも少なく、2日で全部見てしまったし、食べ物はまずいし、何より人が冷たい。
 この街は南米のパリ、だそうだ。住民もパリジャン、パリジェンヌとまではいかないまでも、ヨーロッパ人のつもりでいるらしい。 回りの南米諸国を見下し、外国人、特に東洋人、特にスペイン語をしゃべらない東洋人を見下しているのがありありと分かる。自分達が一番だと思っているらしい。
 その割には日本が何処にあるのかも知らないヤツらが多く、まあ、その辺がすでに、早くも5日目で鼻についてイヤになっていたこともあり、バイクが来たらとっとと出発しようと決めた。

  

アルゼンチンタンゴの発祥地、ボカ地区

 バイクは予定より数日遅れてやって来た。が、またまたムカつくことが起こった。通関手数料が事務所に行く度に変わり、バイクが来る前日、遂に当初言われた料金の、約倍の料金になった。
「南アの送り出し事務所では“ブエノスアイレスの会社は提携会社なので、無料でやってくれる”って言われたぞ」
と言うと、
「それじゃ一人でやればいい。通関するのに一週間はかかるぞ!」
と、脅されてしまった。スペイン語が分からないのをいいことに足元を見られ、ボラれたとしか思えないが、頼むしか道は無い。クソッいやらしいヤツらだ。

 翌日、ようやくその、片言の英語を話す男と空港へ行く。手続を始めてみると思っていたよりいろんなセクションで書類を作ることになった。これじゃとても一人では手に負えない、と納得したが、その男、
「一つ会社に忘れてきた書類が必要だから、今日はこれまで、明日だ」
と言い出した。バカヤロー、高い金払って、オマエの都合で明日にされてたまるかい、とガーガー文句を言ったら、やっと取りに戻ることになった。これがラテンの乗りというものか。完璧にアルゼンチン人がイヤになった。
 夕方、やっとバイクと再会することが出来た。どうやら梱包した時のままのようだ。一安心。税関から出し、空港内で木箱をバラし、エンジンをかける。
 通関出来たのはいいが結局、手数料、保税倉庫保管料(入っていたのは一日だけで、通常は金を取る筈は無いのだが)その他で6万円ほどもかかってしまった。送り出した時、送料と木箱代も入れて8万円ちょっとしかかかっていないのを考えるとやたら高いが、しょうが無い。泣き寝入り、というヤツだ。ハラが立ってしょうがないが、ぐちゃぐちゃ言ってるより、早く自由になった方がいい。

     

現役の墓では豪華さ世界一(大きさなら沖縄が世界一)の墓地。観光コースにもなっている。

 翌日、とりあえず腕慣らしのつもりで一旦北上し、ウルグアイを走ることにした。今この国を走っておかないと後で走るとなったらかなりの遠回りになってしまうからだ。
 アルゼンチンとウルグアイの間のラプラタ川は川幅が広く、ブエノスアイレスから220キロも上流に溯らないと橋が無い。ただ、この街から対岸の街と、首都モンテビデオへフェリーが出ていると聞き朝港に行ってみる。一時も早くこの国を離れ、頭を冷やしたかったし、違う南米の国を見たかったのだ。
 ホテルのフロントで道順を聞いて来たのだが道が分からずホテルからほんの数キロ先なのに港へ行くのに30分もかかってしまった。標識が無かった事や、道の聞き方が悪かった事もあるだろうが、どうやらここ数日のゴタゴタで脳が沸騰し、今までちゃんと機能していた私の脳内コンパスがすっかり狂ってしまったようだ。
 さて、やっと着いたフェリー乗り場だったが、そこは人でごった返していた。ちょうどこちらも観光シーズンで物価の安いパラグアイに観光と買い出しに行くアルゼンチン人が詰めかけていた。
 首都アスンシオン行きはすでにフル。次のフェリーもフルで明日にならないと空きが出ないという。
 どうしたもんか、と思っていたらもう一社フェリー会社があるという。そこへ行ってみると、少し待てば最短距離の対岸の街、コロニアへのフェリーが出るという。一安心。これで500キロの近道になる。実はこの時、冷静にこの長距離を1日で走る元気が失せてしまっていたのだ。
 船は暗くなって港に着いた。簡単に通関して街へ入る。どこかスペインの田舎の港町のような雰囲気だ。
 この日、何度も街をぐるぐる回りホテルを当たったが、観光シーズンで安ホテルは何処もいっぱいで結局公園で野宿を決め、荷物を下ろそうとしていたらポリスがやって来た。
 ヤバイ!と構えていたら、キャンプ場があるぞ、と教えてくれた。全然高圧的じゃなく、ポリスでさえこうだからこの国はアルゼンチンよりずっと人間がソフトのようだと嬉しくなった。
 それで10キロ程離れたキャンプ場へ行くことになった。そして10時過ぎ、やっとテントを張り、キャンプ場のレストランで遅いディナーを摂った。何と英語も少しは通じるし、親切にあれこれ気を使ってくれる。やはりアルゼンチン人とはかなり違う人種のようだ。

  

ウルグアイ初日のキャンプ場とモンテビデオ市内  

 翌日、アスンシオンに行く前、昨日暗くてよく分からなかった街を回ることにした。改めて走ってみて不思議なことに気づいた。それは、やたら古い車が多かったことだ。それもちょっとやそっとの古さではなく、木のホイールの車や、T型フォードまではいかないまでも、ほとんどその次のモデルと思えるようなのがいっぱい走っていたのだ。クラシックカーフェスティバルに出るような車が実用車として走っているのを始めて見た。
 この街から3時間走ってモンテビデオ市内へ入った。ここはブエノスアイレスを五分の1位にしたような規模の街だったが、何となく活気が無いのが気になった。
 相変わらず博物館から出てきたような古い車がいっぱい走っている。新しい車も多く走っており、生活もアルゼンチンとたいして変わらないようだし、これはどうやら経済的な理由だけでは無いようだ。もっとも、50年以上も前の車の維持には手間もかかるし、新車よりよっぽど金もかかりそうだ。
 どうしてこの国だけがこうなのか、不思議だったが英語を話せる人が居らず、遂に理由が分からなかった。

     

モンテビデオ市内で見かけたクラシックカー。これでも新しい方  

 この街自体は退屈な街で、見るべき物も無く、ボーッとしてたら頭も冷えたことだし、2日居ただけで再びアルゼンチンに戻り、本格的に南下することにした。
 帰りはブエノスアイレス行きの直行便に乗ることにした。何とそのフェリーは総アルミ製でジェットエンジンが付いており、茶色に波立つラプラタ川を70〜80キロで突っ走るすごいボートであった。
 その日はブエノスアイレス泊まり。翌日、遂に本格的に南下を始めることとなった。予定より一カ月おくれの2月中旬のことであった。

  

ブエノスアイレス行きのジェットフェリー。超近代的。

最果ての地へ

 南アメリカは、西アフリカ以来久しぶりの右側通行になった。それ自体はすぐにカンを取戻し問題は無かったのだが、車が多いのと運転がメチャクチャなのには閉口した。
 おまけに行き先標示がほとんど無く、道を聞いても付け焼き刃のスペイン語では通じないのか、ちゃんと教える気が無いのか、まともに聞けず、なかなか行くべき道に出られない。何とブエノスアイレスの街を抜けるのに、地図上は30キロ程しかないのに、一時間もかかってしまった。
 そしてようやく街から離れ、30キロも走ったらあたりは一面の大平原になり、いつの間にか周りから車が消えていた。山は一切無く、見渡す限りまっ平。オーストラリアの穀倉地帯のようだ。
 快調に飛ばす、と言いたい所だが、やはり行き先標示が全く無く、同じ道幅の分岐点がいくつもあり、道を尋ねる人も居らず、居てもスペイン語を話さない外国人には実に冷たくアテにならない。その上地図がいいかげんでカンを頼りに進むしかない。
 何処を走っているのかわからなくなったり、カンが外れ、数十キロも引き返したりしていたら夜になり、暗い中を走り続け、ようやくホテルのある小さな街に辿り着き、この日を終えた。
  しかし、宿が決まってもこの国ではもう一つ問題があった。食い物だ。レストランはあるのだが、肉しかないのだ。何処へ行ってもメインはアサードという羊や山羊、牛の丸焼きで、メニューにはほとんど肉料理しか無く、その上野菜類がほとんど無い。
 こちらの人は肉の塊と、せいぜいフライドポテトを食うだけ。しかも朝メシから肉を食うという国民で、日本人の胃とは構造が違うようなのだ。
 私は、というと別にベジタリアンじゃないのだが、ここ十年ほどチキン以外ではラーメンと餃子くらいしか肉を食うことをせず、エセベジタリアンと化していた。たまに肉を食うと体は重くなるし、頭の回転は鈍くなるし、どうもよくない。飢え死にでもしない限り今更でっかい肉の塊なんて食う気がせず、食えるメニューといえばチキンかピザ、サラダにパンくらいだが、これらさえめったにお目にかかれないのだ。
 完璧なベジタリアンだったらとても旅行が出来ない国だ。肉しかない、と覚悟して旅をしたアラブの国の方が意外なことによっぽど食う物が豊富だった。
 翌日、早起きしてひたすら南下する。南に下るに連れどんどん寒くなっていった。南極に近づいているのが肌で感じられる。海からの風が冷たく、着れる物を途中で引き出し、全部着込んで走る。
 風もだんだん強くなってきた。ほとんどが向かい風でスピードが出せない。そして、そんな中を毎日9時間以上も走り続け3日目、プンタノルテ・バルデス(バルデス半島という意味)と呼ばれる、男鹿半島のようにくびれた形をしていて、男鹿半島の四倍程の広さを持つ半島に着いた。
 ここは野性のペンギン、アザラシ、セイウチ等が繁殖している場所で、ずっと以前からそれらを見たくて寄り道をすることに決めていた所だった。
 半島一周は230キロの深いジャリ道のダートで、いくつかのポイントがあり、そこに動物が群れでいる。不思議なことに、各ポイントには一種類の動物しかおらず、ちゃんと住み分けているのだ。

     

バルデス半島を走る。寝ころんでいるのはアザラシ。岩場はオットセイ。

 ここの観光はあまりに広い為、北半分と南半分のコースに分けて、観光の基地、半島の付け根にあるプエルト・マドリン(マドリン港という意味)や一番近い海岸リゾートの街エル・ピラミデス(ピラミッドの意味、ここの山がそれに似ている)からマイクロバスのツアーが出ている。
 車で来た観光客でも道が悪く車が傷む為か、ポイント探しが面倒だからかツアーに参加する人が多いようだ。そんなダートを荷物を積んだままで走る。深い砂利で何度かコケそうになったものの、結局一日かけ全部のポイントを回り、間近で野性動物を目の当たりに出来た。
 やはり動物園の動物とは違う生き物がそこにいた。生き生きとした目を持つ野性をこの目で見る、ということはそれだけで何かを教えてくれるような気がする。それも、数メートルの距離で体重一トンもあるオタリアや、小さなペンギンが見れたのだ。感激。泊まったエル・ピラミデスではソパ・デ・マリスコス(魚介類のスープ)という、南米に来て初めて旨いものも食べることができたし、本当に来て良かった。

マゼランペンギン?の子供と親。1メートルくらいまで接近できる。

 翌日、更に南下していると不思議なことにガソリンが半額以下に下がった。首都より田舎の方が安いという国は始めてだ。走ってゆくうちに理由がわかった。コモドールリバダビアを過ぎる頃、パイプから立ち上る炎が幾つも見えてきた。油田だ。どうやら石油の出る州はガソリンが安いらしい。
 そして、このあたりからパタゴニアと呼ばれる土地になった。今まで寒くなったり暖かくなったりしていた気候も本格的に寒くなり、パタゴニア名物の強風も本格的になってきた。
 パタゴニアの強風はすごい。風速20メートル、30メートルはあたりまえ。時には50メートル以上の風(ガイドブックには100メートル、などと書いてあるが、これは大げさでしょう)が吹き荒れるという。
 たとえて言うなら、毎日大風が来てるようなもの。そこを走る。特に海からの風は冷たく、しかも毎日一度は雨が降った。この時二月末。北半球でいう夏の終わりなのに、寒い。
 風はほとんどの場合横風か向かい風で、強い向かい風の時は6速全開で60キロ程のスピードしか出なかった。しかし、向かい風はスピードが出ないだけでまだいい。問題は横風なのだ。
 風で流されないように風上に向かってハングオンで走る。ほとんど60度ほど傾いたまま走る。それでも突風が吹くと道の端から端まで流された。対向車がいたらアウト、反対方向の風だったらコースアウトだ。

真っ平らなパタゴニアをひたすら走る。  

 特に路面のグリップの悪いダートは押さえが効かずコースアウトしやすい。オーストラリアの西海岸も風が強かったが、ここの風は比較にならない。実際、出会ったライダーのほとんどは風にフッ飛ばされてバイク、ライダーとも傷ついていた。彼らと出会う度に、明日は我が身か、という思いと、コケてたまるかい!という思いが交錯して複雑な気分になってしまう。
 そして、この強風吹き荒れるパタゴニアでとんでもないヤツに出会うことになる。
 走っていると路上には羊、ヤギはもちろん、吠えながら追いかけてくる狂犬、アルマジロ、キツネ、カメ、タランチュラなぞというのも出てきて驚かされるが、この出会いは衝撃的だった。
 雨上がりの午後、例によって斜めになって走っていると遠くに近づいて来るバイクが見えてきた。さらに近づくと、地元の人でも外国人ライダーでもなさそうだ。どうも日本人くさい。顔が分かる位近づくとやはり日本人の顔。しかもドカヘルを被っている!擦れ違った時目が合った。バイクを止める。彼も後ろの方で止まり、引き返して来た。それにしてもすさまじいカッコウである。
 バイクはボロボロのボリビアナンバーのヤマハ2スト100cc。荷物はヘッドライトの前にシュラフを括り付け、リヤにビニール袋にくるんだ小さなバッグを無造作に放り込んだように積んでいるだけだった。出立ちはビニールカッパの上下に溶接用の手袋、ヘルメットは前記したように風通しの良過ぎるドカヘル。背中には予備ガスを10リットル背負っているという凄まじいいで立ちであった。
 しかも、砂まじりの強風の吹くここでサングラスもゴーグルも無しなのだ!こちとら最新のウェアに身を包み、それでも”寒い、さぶい!”と言いながら走っているというのに・・・。鉄人である。インド人並の強さだ。インドでも砂埃がモウモウと舞い上がる中、オヤジどもはメガネもせずバイクを走らせていた。それ以来の驚きだった。
 更に驚くことには、彼は何とこのバイクが生まれて始めて乗るバイクで、ボリビアのサンタクルスでこのバイクを友達から借り、アンデスの悪路を越え、ウシュアイアまで行き、これからボリビアへ帰るところだと言うのだ。人間、やる気になれば何でも出来るものだ。たかがツーリングに、いいバイクも情報もテクニックも、ましてやウェア、装備なんて何でもいいのだ。
 今まで世界を8万キロ走り抜いてきた、という自信、誇りというものが一発でフッ飛んだ瞬間である。
 “ヘヘーっ、まいりました!”と土下座したい気持ちであった。今までの私のツーリングを“無”にしてくれた男は、白根あつし(30才、ボリビア・サンタクルス住)と名乗り、写真を撮って去って行った。

鉄人、白根氏のバイク。氏の写真は現在捜索中。

 翌日、ブエノスアイレスを出発して6日目、アルゼンチンパタゴニア最後の街リオカシュゴスに着いた。この日の内にフエゴ島まで行けたのだが、遅い昼メシを食おうと寄ったレストランでスーパーテネレに乗るイタリア人との話で、ここから先、もっと寒くなる、と言われ、クソ寒くて体の心まで冷え切っていて、防寒用アンダーウェアを着てなかったこともありこの街に泊まることにした。
 宿を探し、街へ出てセーターを探すことにした。もうこれ以上着る物を持っていなかったのだ。ところがやっぱりアルゼンチン。高い。ウール製の物は最低60ドルはする。こんな旅行をしていると60ドルは大金だ。日本でなら簡単に買ってしまうところなのだが、ブエノスアイレスで予定外の出資が多かったので何かアルゼンチンに金を落としたくない。
 何軒も回り、やっと化繊の薄い20ドルのバーゲン品を見つけた。あんまり暖かく無さそうだがまあいい。安いのが一番だ。これを16ドルに値切って買った。
 翌日、朝10時出発。街を出るとすぐに道はダートになった。そこを70キロ程走るとチリとの国境に出た。南米3番目の国だ。

  

強風の中、フエゴ島へ向け走る。最初のフェリーがこれ。  

 手続きは簡単。両国の手続きを50分で抜け、走り出すと雨が降り出した。寒い。震えながら60キロあまり行くと目の前に海が広がっていた。マゼラン海峡だ。30分待たされてフェリーに乗った。料金は無料。船は30分で対岸に着いた。遂に街のある世界最南端の島、フエゴ島に上陸したのだ。道はそこから砂利のダートになった。強風の中、なだらかな丘が続く草しか生えていない大地を走る。そこを130キロ程行くと再び国境に出た。フエゴ島はアルゼンチンとチリに二分されているのだ。
 再びアルゼンチンに入り、夜リオ・グランデという街に着いた。夜といってもこの時期、このあたりの日の入りは午後10時頃。11時過ぎまで十分明るいのだ。
 さっそく宿探し。二軒目の小さなホテルのオバチャンが気のいい人で、キッチンも付いていて安く、一目で気に入ってしまった。何より全館暖房が効いていて暖かいのが嬉しい。近くにスーパーもあり、久しぶりに旨い物にありつけ、久しぶりにのんびり出来る宿であった。
 翌朝、起きたら数日前から痛かった右足首が悪化していた。見たら腫れている。別に打った訳でも捻った訳でも無く、原因が分からず騙し騙し来たのだが、ブーツが履けない程になっていた。昔、車にぶつけられた時でもこんなにハレなかった。不思議なものだ。
 長い間の旅でガタがきたのか、はたまた何かが乗り移ったのか、ともかく出発できそうにない。まあいい。足の治療をしつつ、一日のんびりすることにした。
 朝メシを食って、近くの薬局に湿布薬を買おうと出かけた。ところが、一軒目の店では、そんな物は無い、と言われ、二軒目の店にようやくチューブ入りの塗り薬が一種類だけあり、買った。宿に帰り、ここののオバチャンに聞いても貼り薬は売ってないらしい。この国の人には肩こり、腰痛は無いのだろうか。確かにストレスは無さそうな人達ばかりではあるが、これまた不思議なもんだ。打ち身、捻挫なんてのもあるだろう。何か他に治す手だてでもあるのだろうか。

ウシュウアイア
 

     

フエゴ島のチリーアルゼンチン国境。(中)この森を抜け、(右)この湾を回るとウシュウアイアだ。

 翌日、ブーツが履けるまで回復したので出発する。そしてブエノスアイレスから約3千600キロ(内ダート約690キロ)を走り、ついに世界最南端の街ウシュアイアに着いた。
 ウシュアイアの街はフエゴ島の南端に位置し、平地が少なく、山の斜面にへばり付くように広がる坂の街だ。その街へ入る前のダートの峠を越えたらウシュアイアの街と大河のようなヴィーグル水道を挟むように対岸に広がるチリ領ナバリノ島の姿が見えてきた。世界最南端に来た、という感動も重なり、正に絶景。街の裏、山の上には氷河も見える。
 街へ入ると、以外と大きな街で、ここに来るまで思っていた、地の果てのひっそりとした街、というイメージが吹っ飛んだ。南北に走る道路はほとんどが急坂で、街と建物の造りには全くスペインの香りがしない。割と新しい街だからなのだろう。町の中心部にはホテルやみやげ物屋が並び、観光客で賑わっていた。街中を走りながらふとバックミラーを見たら、全身埃だらけ。この格好で観光地のホテルへ乗り込むのもチトまずい。『満員だ!』と断られる恐れがあった。
 ちょうどヨーロッパ風のしゃれたカフェを見つけ、なにはともあれ埃だらけの顔を洗い、一休みすることにした。コーヒーとクロワッサンで5ドルもしたのには驚いたが、店の雰囲気とコーヒーの味はパリのカフェにいるような気にさせてくれた。まあ、とりあえずウサン臭がられないまでにはなっただろう。

  

ウシュウアイア手前の漁村、港にあった看板。ブエノス、3040キロ、とある。

 その後街を一回りして、目を付けておいた安そうなホテルを順に当たった。ところがどのホテルも民宿も料金が高く、どうしたもんか、と街をウロウロしていると、日系アルゼンチン人の観光客に話しかけられ、『 日本人のオジサンが泊めてくれるよ 』と聞き、行ってみることにした。
 教えられた家は街外れにあった。ずいぶんウロウロしてやっと探し出した。実は家の前で自転車をいじくっていた日本人青年を見つけて発見したのだが、全く周りの家と同じフツーの家がその“宿”だった。青年に案内され中に入ると老人が迎えてくれた。この人がここのご主人、上野氏だった。氏が日本人のビンボー旅行者を見かねて泊めるようになったのだそうだ。もちろん有料だが、物価の高いここで日本食3食付きで20ペソ=20ドル、は高くはない。それより、このご主人の話を聞くのを楽しみに来る人も多いらしい。
 そのオヤジ、いやご主人。20数年前移民でアルゼンチンに来て、10数年前からここに住み付いたのだという。その理由が面白い。釣り、特に淡水魚釣りが好きで、このあたりの池や川にはデカイ魚がいくらでも釣れ、それが気に入ったのだそうだ。
 さてこの青年、名前を待井剛クンといってアラスカから2年数ヶ月かけて自転車でやって来たのだという。たいしたものだ。これから私とは逆回りに世界一周を企てているのだという。
 この家は変わった旅行者の南の終着点になっているようで、ここにあるノートに、北米からリヤカーを引いて来たヤツ、ボリビアからロバを連れて歩いて来た( 6千キロもある!)ヤツの話が書いてあった( この2ヶ月後、同じくボリビアから中国人民チャリ〈中国製の自転車〉で来たヤツがいる )。
 であるから、アフリカからバイクで来たヤツが少しめずらしい位で、北米からバイクで来たヤツなどはフツーの旅行者と同じなのであった。
 3日後、Jマーク( 日本のナンバープレート )の付いたぶかっこうなホンダがやって来た。そのライダー、いきなり私の名前を知っていてびっくりしたが、アラスカから下って来たと言う“フツーの旅行者”だった。
 彼、元吉クンは私の連載を読んでいて、しかも私の著した、海外ツーリングバイクの改造ノウハウ本を買って、それを参考にバイクを改造して来たのだという。知っている訳だ。エライ!パチパチ。
 ところが、よくよくバイクを見たら、やっぱり“世界一カッコ悪い”バイクで、笑ってしまった。彼も“お手本”のバイクをこんな所で見れるとは思っていなかったようでしみじみと見ている。
 彼のバイクは全て自作だそうだが、旅の間に何度かキャリアが折れたらしい。『本の通りに作らないからだ』とエラソーにタレる私であった。ハハハ・・・。
 その数日後、上野のおっちゃんから、海外ツーリングの元祖のような人がこの街に住んで居る、という話を聞き、元吉クンと訪ねてみることにした。

ウシュウアイアの風景

 その人は、街の中心部から少し登った坂の中腹に住んでおられた。この店先からヴィーグル水道やナバリノ島はもちろん、ちょうど目下に飛行場があり、離着陸するジェット機がオモチャのように見える絶景の場所だった。
 その人の名は玉城盛昭氏。ここで息子の名を付けた小さな雑貨店を営んでおられた。奥から出てこられた氏は想像していたよりずっと小柄な人で、気のいいオジサン、という感じだった。そしてバイクで突然現れた我々を気持ち良く迎えてくれ、話をしてくれた。
 氏は20数年前、故郷沖縄を出て鹿児島に上陸(当時、沖縄の人から見れば鹿児島はパスポートが必要な外国であった)し、そこでホンダベンリイ125(わかるかな?CBの先祖だ。私もガキ、いや小学生の頃乗ったことがある)を買い北海道まで走り、そこから貨物船に乗ってアメリカへ渡り(当時1ドル=360円だった!)バイトをしながらここまで走って来て(当時、国際ナンバーというものが無く、鹿児島ナンバーのまま走ったという)この街が気に入り、この地の娘と結婚し、(おっと、どちらが先か聞き忘れた)日本人として始めてこの地に住み付いたのだという。
 氏の話続く。
「情報無し、地図無し、道悪しで大変だったでしょう」
と私。
「そんなこと無いよ、道があるんだからだれでも来れるサ、ボクが来たんじゃなくてホンダが(氏はバイクが、とは言わずホンダが、と言った)ボクをここまで運んでくれたんだよ」
と、淡々と語ってくれた。
「旅が全てを教えてくれるんだよ、道端の石ころ一つも旅の先生なんだよ」
と、20数年前、日本人で始めて北米、南米を縦断した大先輩は何の気負いも無く淡々と語られた。
 当時と今とではバイクの性能、道路コンデション、ガソリン拾得、その他あらゆることに格段の差(もちろん困難な方に)があった筈だし、ガイドブックやスペイン語会話集なんて便利な物は勿論無く、それどころか何の情報も無かっただろう。それなのにサラリとこんなことを言われてはドカヘル男に続いて今までの私の旅が”無”になってしまうように思えた。
 しかし、『旅が全てを教えてくれる』、
けだし名言ではないか。私は12万キロ走って来た今でもまだこの境地には達することが出来ていない。どうやらまだまだ修業が足りないようだ。氏は当初写真をいやがられていたが、最後には我々愚後輩の頼みに気持ち良く応じていただいた。撮影の為店先に出て、そこに置いてある、ベンリイから30年近く過ぎ、進化した我々のホンダをしみじみと見る氏の目は今だ現役のそれでもあり、過ぎ去った30年の歳月を辿っているようでもあった。
 ただ、家の奥に保管してあるという“鹿児島ナンバー”のベンリイ125は遂に見せてはもらえなかった。我々、甘いツーリングライダーには分からない“想い”がきっとそれに染みついているのだろう。我々にはそれを無視してまで頼み込むことは出来ないし、そこまで踏み込む権利もない。
 帰り際、氏は、
「いつでもまた来なさい」
と言ってくれた。

数十年後のホンダに見入る玉城氏

 世界最南端のこの街にも今ではかなりの日本人が住んでいる。永住しているのは前記の上野さん夫婦と玉城さんともう一人居られるだけだが、この島は免税地区になっていて、サンヨーのビデオとテレビの工場と、日本向けの缶詰工場があり、何人かの技術者が赴任して来ている。
 そのサンヨーの工場の人は上野のおっちゃんの釣りの“弟子”だそうで、一度ここで会って話を聞いたことがある。
 さすがにこのあたりは“地の果て”だからか、従業員が不足していて全国から通常の2〜3倍の高給で集めて来るらしく、だから当然山師的な人間が集まってくる。
 そのせいか、ここの国民性なのか、プライドが高く口ばかり、要求と言い訳ばかりで仕事の能率が悪く、人の扱いにくさと歩止まり(不良品率のこと)の悪さは世界中の同社工場でもトップクラスなのだそうだ。
 さて、この宿、上野氏宅にはその工場の人が持って来てくれると言う最新の新聞が置いてあり、むさぼるように読んだ。それこそ隅から隅まで、広告まで読み返した。日本を出て4カ月、活字と日本の情報に飢えている。各国の日本大使館に寄る度に新聞は読んでいるのだが、早くても二週間遅れでほとんどが1カ月遅れ(最新版は大使館員が独占、お古しか見せてくれない)だし、ブエノスアイレスの大使館では見せてもくれなかった。ここには日本の本も多く、ビデオもあった。旅をしていて日本食を恋しく思ったことはこれまで一度も無いが、日本の情報と活字にはいつも飢えていた。
 旅行者の中には、せっかく日本を出ているんだから日本で何が起きてようと知ったことじゃないし、他の国や自分のいる国の情報さえ興味無い、と言う人も多いが、私には耐えられない。情報・データがなければ現場にいてもその国の本質は分からないし、せっかく訪れた国を“景色が綺麗だった”だけで離れるのはもったいないと思っているし、遠い外国から日本を見る、ということも有意義なことだと思っている。

     

ウシュウアイア湾一周ツアーにて。アザラシも海鵜もいっぱいいた。

 この、新聞、本、ビデオでアッという間に数日が過ぎた。季節はずれの雪が降り、寒くて外に出たくなかったことも、久しぶりに緊張が取れて気が抜けてボーッとしていたことも影響している。
 その間何人かの旅行者が来ては旅立って行った。でもいつも必ず3〜5人は泊まっていた。客用の部屋など無く、寝るときは食堂兼居間の土間にマットレスを敷いて雑魚寝である。それに風呂も一日おきにしか入れないという不便さなのだが、それでも何処からか噂を聞いて旅人がやって来た。一つの部屋でワイワイ生活するのは本当に久しぶりで、遥か昔の修学旅行を思い出した。
 やって来る、と言えば、高級ホテルに泊まっている人も時々やって来た。目的は、日本食とカニである。このあたりでは、セントージャとセントジョンと呼ばれるカニが捕れる。日本で言うと、前者が花咲ガニで、後者が毛ガニだ。
 もちろん街のレストランでも食えるのだが、足しか出てこない。こちらの漁師は網から揚がってきた瞬間に足をボキボキもぎ取り、甲羅はそのまま海に捨ててしまうからなのだ。日本人には信じられないことだが、それがこちらのやり方なのだ。ミソなんて気色の悪いモン食えるかということらしいが、しかし我々日本人にはそれでは味気ない。
 上野さんは知り合いの漁師にボキボキなしで、と頼んで買っているそうで、それを丸ごと茹でて食わしてくれる。そのことを何処で聞いたか、たまに飛行機で来た“フツーの”観光客がタクシーでやって来るのだ。

セントージャ、うんまいぞー!

 我々ビンボー旅行者では毎日は手が出ないが、それでも何度か食った。でっかいのがそのまま1匹丸ごとどーんと運ばれてくる。それにむしゃぶり付く。ミソもたっぷり付けて食うと、とんでもなく旨い。ここに来るまでマズイ物ばかり食っていたことを差し引いてもとんでもなく旨い。
 前にも書いたが、この国は東ヨーロッパ以外では世界有数の食い物のマズイ国だ。何処へ行っても塩コショウで焼いただけの肉ばかりなのだ。ただ、そんなシンプルな肉が好き、というひとにはたまらないだろう。日本よりうーんと安い。その上、アルゼンチン人に言わせると“世界一旨い肉”なのだそうだ。もっとも3カ月後に行ったブラジルでは、
『ブラジルの肉は旨いだろ!アルゼンチンの肉なんてまずくて食えないよな!』
とよく言われたものだが‥‥。
 肉ばっか、と言えばこんな話がある。上野のおっちゃんが胃潰瘍で入院して手術をした時、栄養を付けなきゃいかん、ということで翌日の朝メシからステーキが出てきたらしい。さすがに日本人、とてもそんなもん食えず、家からこっそりお粥を持ってきてもらい、隠れてすすったのだそうだ。
 とにかく、ここで食ったカニは、日本では味わったことのない旨さであった。