ヤーガンの血を引く( たぶん )女の子

 前に、ここが世界最南端の街、と書いたが、本当はもう少し南にも人が住んでいる。これも前に書いたが、ヴィーグル水道を挟んだ対岸にあるナバリノ島がそれだ。
 ここはチリ領で、軍隊の基地があり、そこで働く人々のための小さな村がある。当然、是非そこに行ってみたいと思った。人が住む世界最南端と言うこともあるが、その村にはこのあたりの先住民の末裔が居る、というのだ。
 南米大陸には、ヨーロッパ人がやって来る前、沢山の先住民族が居た。数万年前、地続きのベーリング海を渡り、グレートジャーニーの果てに辿り着き、住み付いた我々日本人と先祖を同じくする人々だ。
 ところがヨーロッパ人、特にスペイン人がやって来てから事態は一変した。彼らは草原に杭を打ち、俺の土地だ、と勝手に宣言して羊毛の為の羊を飼い始めた。そして、その中で生活をしている先住民を、羊のじゃまになる、と虐殺し始めた。
 そのうち“駆除”の人手が足りなくなり、農場主はならず者を雇ってやらせ出した。その報酬は殺した人達の耳の数で支払われた、という。何とそれが胎児の物だったら単価が高く、妊婦が競って狙われたらしい。この街にある博物館には、沢山の耳をネックレス状にして首からさげ、誇らしげに撮らせている男の写真がある。
 そうしてアルゼンチンからインディオが居なくなった。厳密に言うと、限りなく百パーセントに近い先住民が“駆除”されてしまった。それも、遠い昔のことではなく、つい数十年前まで行われていたことだという。父の代は当然として、今生きている人でも高齢の人の中にはこれに荷担した人が少なからず居るのだ。
 恐るべき事だ。たぶん日本人でこの事実を知っている人は少ないだろう。私もここに来なければ知るよしもなかった。
 つい一カ月前まで居た南アフリカはアパルトヘイトで散々世界中から叩かれたが、“駆除”しなかっただけスペイン人より南アに移住したヨーロッパ人(主にイギリス人、オランダ人、ドイツ人)の方が“いい人”だったのだ。
 もし白人が入植した頃、南アでも黒人を皆殺しにしてしまい、100パーセントの白人の国にしていたら今頃誰も南アに対して文句を言わなかっただろう、と思うと戦慄を覚える。
 彼ら先住民にとって不幸だったのは、この国には山が少なく隠れる場所が無かったことと、ヨーロッパの羊毛供給地になってしまったことだ。それで南米一先住民の少ない国になってしまった。
 その、限りなくゼロに近い純粋の先住民、ヤーガン族の生き残りがその島に住んで居る。ただし、今では老いた姉妹二人が居るだけで、子供達は既に混血してしまい、彼女たちが死んでしまえば地球上からヤーガン族とヤーガン語が消えてしまうというのだ。
 その人達に遭いたかった。しかし、その島は“外国”で、ここからの定期便は船も飛行機も無く、船をチャーターするしかなかった。元吉クンと毎日港へ行き、色んなヨットのオーナーに交渉した。が、言い値はどれも高く、とても我々には出せない金額だった。だが、自転車青年、待井クンは安い料金で私がここに辿り着く数日前に行ったらしく、望みはまだあった。

     

森を抜けるとフィヨルドの入江に出た    南米の道はここから始まる     ビーバーがかじった跡、沢山いる   

 ヨット待ちの間が観光タイムとなった。泊まり客をおっちゃんが車に乗せて観光に連れて行くのにバイクでつきあったこともある。その時は20キロ程離れたフエゴ国立公園に行った。
 その公園の一番奥に、ここがパンアメリカンハイウェイの終点、というボードが立っているのを見つけた。そこには、アラスカまで1万7千423キロと書いてあり、改めてこれから先の遥かな旅のことを思った。ようやく5大陸目の旅を始めたばかりだし、たぶん、この直線距離の3倍は走ることになるだろうし、1年くらいかかるだろう。ただ、大変だ、と思うことはなく、まだそんなに楽しめる、という気持ちの方がずっと強く、気力も体力もまだ衰えてはいない。
 後日、街のすぐ裏にある氷河を見に行った。この氷河へはバイクで中腹まで行き、そこからスキー場のリフトで少し登り、更に一時間程歩いて行く。たぶん、世界でも最も街に近い所にある万年氷河の一つだろう。ハーハー言いながら登り切った氷河の上からの眺めは最高だった。ウシュアイアの街やヴィーグル水道は勿論、ナバリノ島の島の形まで何となく分かる程で、遙か下を飛ぶ飛行機はハエが飛んでいるように見える。
 さて氷河。近くで見ると細かい泡が無数に入っており、サファイアブルーに輝いていた。頂上に降った雪は雪の重みで圧縮され氷となり、それが年に数センチづつ流れ、標高が低くなったところで水に戻るのだ。
 巨大な氷河だと水に戻るのに数千年もかかるという。この氷河はそんなに巨大ではないが、それでも千年以上は経っているだろう。そう思って見ると、その透き通ったブルーがますます神秘的に見えてきて、引き込まれてしまうようだ。
 しばらくの間氷河の上を歩き、そしてそこに座って旅のことを考えた。世界の果ての地まで辿り着くのに走り続けて3年かかった。帰国していた時間を入れると7年も旅に費やしているのだ。果たして自分の人生で、この7年という時はどんな意味があるのだろう。いや、果たして意味さえあるのだろうか、と。
 本当はこのまま日本の都会で日々の生活に戻るのが怖いんじゃないのか、とも思った。ふと、また玉城さんに会ってこの答えを聞いてみたいとも思った。なんて言ってくれるのだろうか・・・。

     

氷河へ登るリフト         氷河からの眺め           氷河最上部

 この夜、持ち帰った氷河の氷でオンザロックを作ってみんなで飲んだ。グラスの中の氷から、何百年か千何百年か、数千年か知らないが、パチパチという音を立てて遥か昔の大気が染み出てきた。
 それをウイスキーと共に飲み干す。太古の氷と大気を飲む、不思議な気分だ。なんか、今までずっと氷の中に閉じこめられていたパワーが一気に体の中に流れ込んだような気がした。そしてその味はまた格別であった。
 その数日後、待井クンが出発した。彼は3週間程居てしまったらしい。長い旅をしていて、特にひとりで旅をしてきて、突然こんな所に出会うとつい長居をしてしまうものだ。日本に里帰りしたような気分になってしまうのだ。彼は5年をかけて世界一周を目指しているのだそうだが、何となく彼ならやり遂げるだろう、とこの時思った。
※注( 彼は’98年、無事117カ国を走り抜いて帰国しました。ホームページは、                                                                              http://homepage1.nifty.com/117/

北へ

 3月初旬、13日目でようやく私も出発するふんぎりがついた。先は長い、行かねばならぬ。ついに船が見つけられず、ナバリノ島は夢と消えたが、まあしょうがない。どうせバイクでは走れないので今度飛行機で来た時でも行ける。その時までどうかヤーガン族のおばあさん、元気でいて欲しい、と願うのみだ。
 朝出発する予定だったが、何となくずるずると昼メシまで食い、みんなで写真を撮って、元吉クンに街まで見送られ、ウシュアイアの街を後にした。

  

       待井クン        元吉クンと上野夫妻と私

 この日は、フエゴ島のチリとの国境のすぐ脇にあるホテルに泊まった。もう少し先まで行く予定だったのだが、アルゼンチン側は簡単に済んだ手続きがチリ側のイミグレーションで延々2時間も待たされ、予定が狂ってしまった。
 その待たされた理由を知っていかにも南米だ、と思った。何と職員が奥の部屋でテレビを見ていて出て来なかったのだ。奥から笑い声が聞こえてくる。
 そのうちハラが立ってきて頭がバクハツ寸前、奥の部屋に怒鳴り込みたくなった。ところが驚いたことに、待っている人達は文句も言わずおとなしく待っているのだ。なぜ?と聞くと、『しょうがないなー』という顔はするが、なにもそれ以上のことは何もしようとはしない。
 信号待ちで、ちょっとでもスタートが遅れるとクラクションが一斉に鳴り出すくらいせっかちな国民なのに不思議なものだ。まさか自分達もそうだから何も言わないのだろうか。
 それでここに泊まることになった。アルゼンチンとチリの中立地帯に立っている不思議なホテルで、電気は夜数時間だけしか通じなかったが意外と綺麗で、なにより中はガス暖房が効いて暖かいのと支払いはチリペソでアルゼンチンよりずっと安いのがいい。
 翌日、朝から雨。しかも風が強く、外に出ただけで縮み上がった。走りたくない日だったが、ここにいる訳にもいかない。気合いを入れて出発する。
 出発後早くも5分で震えだした。道は深い砂利道。その中を西へ向い、昼過ぎポルベニールという小さな港町に着いた。
 ここから目の前に広がるマゼラン海峡をフェリーに乗ると僅か一時間ほどでチリ側パタゴニア最大の街、プンタ・アレーナスへと着く。この頃には雨も止み、青空が広がっていたが風が強く、何と船が止まっていた。港のレストランで昼食を摂りながら待ったが結局夕方まで待たされた。

プンタ・アレーナスへのフェリー 

 薄暗くなってやっとプンタ・アレーナスの港に着いた。ところがフェリーに乗るまでは紺碧の空が広がっていたのに上陸する頃にはまた雨が降り出した。
 街に入る頃には土砂降りになった。あわててレインスーツを着て宿を探すが、こういう時に限ってすんなりとはいかないものだ。街を何度もグルグル回ってようやくガレージ付きの安宿を見つけ、チェックインする頃にはあたりはもう真っ暗になっていた。
 部屋に入り、荷物を解き、雨で冷え切った体が暖まったところでメシを食いに外へ出たらいつの間にか雨は上がっていた。
 この街は、ホテルこそウシュアイアより少ないものの街自体はずっと大きく、人口も多いようだ。チリの中では一番物価が高い街だそうだが、それでもアルゼンチンよりずいぶん安く、ほとんどウシュアイアの半額程になった。食事もアルゼンチンと違ってチリ人は魚介類をよく食べるようで、この日も魚のディナーにありつくことができた。

  

市庁舎(たぶん、左)とマゼラン像。足元には絶滅させられたインディオが・・・

 翌日、青空が広がった。ここはウシュアイアのように周りを山に囲われていないので強い風が街を吹き抜ける。私がいた二日の間、『この位たいしたことはない』と地元の人は言っていたが絶えず強風が吹き続け、時折突風が吹き抜けた。
 埃が舞い上がる風の街、プンタ・アレーナスを歩く。街はソカロと呼ばれる一ブロック四方の公園を中心に広がる南米の何処にでもあるようなスペイン風の造りの街なのだが、この強風があるだけで地球の最果ての街へ来た、という気分にさせてくれる。
 緯度でいうとウシュアイアの方が少し南に位置するのだが、この街の方が観光地化されていなくて、最果ての地、と言うにふさわしく思われた。
 街を歩くと東洋系の人を時折見かけた。韓国人の移民が多いという。第二次世界大戦後、パタゴニアには未知の土地に夢を抱いて多くの国から人々が渡ってきた。それは今でもずっと続いているらしい。そう言えば対岸のポルベニールにはユーゴスラビアからの移民が多かった。

   

ペンギンに会う為にダートをとばすがシーズンオフでこのコだけ。前は寂しい海だった。
このコ、ひとりぼっちでどうするのだろう

 3日後、北へ向け出発する。途中、ペンギンの保護区に寄ってみるが、シーズンオフということで数時間歩き回ったものの2羽しか見れなかった。百キロ以上もダートを遠回りしたのにこれだけで心残りはあったが待っていてもしょうがない。先を目指す。
 そのままアルゼンチンとの国境に沿って北上し、翌日パイネ国立公園に入った。
 この公園には標高こそ高くはないもののロッククライミングで世界的に有名なパイネ峰がある。これは、尖った岩が幾つか並んだ岩山で、毎年何人かのクライマーが命を落とすという。
 その岩山と、一番奥にあるグレー氷河を見たくて公園内のダートを走る。パイネ峰は紺碧の空を貫くように立っている姿を見せてくれたが、氷河の方はトレッキングで数時間歩かないと目前に見ることは出来ないそうで、行って帰って1日コースらしい。それを聞いて諦めた。トレッキングコースの入り口までバイクで行き、遥か遠くに氷河を望んだだけでそこを後にした。
 しかしその代わり、誰もいない公園のダートを走っていて、野性のグアナコの群れや小型のダチョウ・ニャンドゥ、キツネがすぐ目の前に姿を現し、大満足であった。
 この日は国境の小さな村に泊まり、翌日再びアルゼンチンへ入国(このままチリ側を北上する道は無い)し、更に北上する。

  

パイネ山と野生のグアナコ。すばらしい景色!

 そこからダートを走ること約200キロ、湖に落ちる大氷河が見れるという国立公園観光の街、エル・カラファテに着いた。ウシュアイアから千300キロ強。うち半分以上はダートを走って来たことになる。
 この街へ入ると、再び物価がハネ上がった。特に観光地ということもあり、高い。小さなピザとコーヒーで8ドル程もするのだ。やはりビンボー旅行者にはつらい。
 翌朝、こんどこそバイクで行っても目前で氷河を拝むことができるらしいのだが、街から往復160キロのダートを走らなければならない。そのダートは砂利が深く走りにくい。そして、そこで南米で始めてのパンク。それも長さ20センチほどのボルトが刺さっていたのだ!久しぶりの修理で(その前はアフリカで1度パンクしたのみ)ゴムのりが固まっていて修理不能。予備チューブに替え走り出した。

真っ直ぐなダートをひたすら走る。 

 アップダウンを繰り返すワインテイングロードから時折青い氷河湖に浮かんでいる氷が見える。そのうち道は森林地帯に入った。
 いくつかの崖を回り込むと森が開け、いきなり目の前に真っ青な湖にそそり立つ巨大な氷河が現れた。その凄まじいまでの迫力に、一瞬にして全身に電流が走った。
 単に景色を見てこんな気持ちになったのはパキスタンのカラコルムハイウェイとサハラ砂漠以来のことだ。いずれの場合もその存在感に圧倒されてしまった。その存在感とは地球が作り出した八千メートル級の岩山であったり、膨大な量の砂だったり、この果てしない氷の固まりだったのだ。

     

ペリトモレノに近付くとすばらしい景色が現れた。目の前に広がる広大な氷河。ものすごい轟音! 

 そこからまたいくつかの崖を回り、氷河のすぐ対岸まで出た。氷河の名前はペリトモレノと言う。その氷河がほんの数十メートル先に見える。圧倒的な迫力だ。
 ウシュアイアの氷河は大きな氷の“板”だったが、ここのは氷の“柱”だった。たとえは悪いが、東尋坊の石柱を全部氷にして数キロの幅にして、山の頂上まで広げたようなものだ。パイネ国立公園では一番奥まで行ったのに氷河は遙か先でがっかりしたが、今回は報われた。
 氷河の出来方は前にも書いたが、ここのはスケールが違い端の氷は数千年の歳月が経っているらしい。その氷柱が時折、かのダーウィンが『艦砲の一斉射撃のようだ』と表現したすさまじい轟音と共に崩れ落ち、数千年ぶりに水に帰る。その雄大な風景と長大な時間の流れにしばし浸った。
 この日、宿に帰ると、更に巨大な氷河を船で見に行くツアーがあるというので予定を延ばして参加することにした。
 翌朝、港に行き、船に乗り込むと何とここに日本人のツアー客が居てびっくりした。しかも私と同じ田舎から来た人達で二度びっくり。地球は狭いものだ。
 久しぶりに熊本弁でしゃべった。それは良かったのだが、気になったことがひとつ。同じ内容の今日のツアーのオプション料金が私の申し込んだのの倍以上なのだ。
 余計なお世話かも知れないが、日本のツアー会社は労力を使わない(現地のツアーの切符を買うだけ)ことで儲けすぎだ。無知な客の足元を見てフッかけ過ぎだ。この後いろんな所で調べたら現地価格の3倍以上というオプショナルツアーもあった。
 ヨーロッパからのツアーだとせいぜい5割増し程度なのだ。出会ったツアー客に何度かそれを言ったが、『言葉が分からないから』といつも何も言わなかった。日本人は何ておとなしいんだ。ほとんど修学旅行の延長だ。添乗員にしたら楽なもんだろう。外国人客だったらこうはいかない。

   

海から見た氷河。流れ出た氷山が美しい。

 昼メシの時間、氷河が目の前に見える半島に上陸した。昼メシは高そうだったので食わない予定だったが、つい日本人の人達と食うことになった。
 そうしたら、やっぱり予想が当たっていた。ウドンのようにふやけた茹ですぎのパスタに、炒めたただけのような挽肉のミートソースのかかった世界一まずいスパゲッティが15ドルもしたのだ。
 ハラが減っていたので何でも食えるハズだったのに半分しか食えなかった。隣の人は(日本人)味が無さそうでいかにも不味そうな、ゾウリのようなステーキを食っていたがやっぱり半分も食べられなかった。
 ヨーロッパからの観光客も多かったが、やはりほとんどの人が残している。どうやら観光地世界最低のレストランのようだ。さすがはアルゼンチンというべきか。
 ここの氷河はペリトモレノのように崩れ落ちる迫力の光景はないが、なだらかな山から続く氷河と、湖面に浮かんでいる無数の青く輝く氷河のかけらとのコントラストが美しかった。

    

上の続き。1日のツアーで6000円くらいだった。結構寒い。

 翌日、出発する。食い物はマズかったが、景色はいいし、のんびりしてもう1日居たかったが、物価には勝てない。早くここを抜けてチリへ入ることにする。
 ここを出て40キロ走り、左に折れるとそこからチリ国境までの約800キロがパタゴニア最長のダートになる。
 途中一カ所スタンドがあり、無給油七〇〇キロ走れる我が愛車にはガソリンの心配は無いが、人家はほとんど無く、車もめったに出会わないのでノーマル車には大変なルートだ。
 道は砂利が深い所、大きな石ゴロゴロの所、砂の深い所と何でもありで、おまけにアップダウンが急で多い。その分景色は最高で、バイクには最高に気持ちいいルートだ。
 最長ダート越え初日、500キロ程走った所にあった小さな村の、一軒だけあった愛想の悪いオバサンがやっているボロ宿に入った。思っていた通り食料はロクな物が無く、プンタアレーナスで買ったアメリカ製のカップ麺を食ってやることもなく早々と寝てしまった。

 次の日の朝、出発してすぐのこと、自転車で急な坂を登って来る白人に出遭った。
 彼はオーストラリア人で、アラスカから2年数ヶ月をかけ、ここまで走って来た、と言った。そして驚いたことに彼には相棒が居て、何とそれは日本人女性だという。
 しばらくしてその相棒が息を切らして登って来た。意外な出遭いにお互い驚いた。
 彼女の名はエミコ。真っ黒に日焼けしていて、身長150ちょっとしかない小柄な子だった。歳を聞いて驚いた。20代後半だと言うのだが、本当の歳よりずっと若く見える。

  

1軒だけあったホテル(左)とエミコとスティーブ。
エミコはこの後パキスタンで病に倒れ、今大阪で闘病生活を送っている。
詳しくはホームページを見て欲しい。

 何と彼女はこの小柄な体でオーストラリアをトランスロップ600のアンコ抜きで3万5千キロも走ったことがあるのだそうだ。それだけでもすごいのだが、そのオーストラリアで自転車で旅をしていた彼と出合い、今度はいっしょに自転車で世界一周を目指している、と言う。
 普通、楽なバイクに乗るとキツイ自転車には転向できないものだが、よく決心がついたものだ。彼への愛が決心させたのか、羨ましい。
 もう一つ驚いたことは、一日の予算が5ドルだと言ったことだ。それも、二人で、だ。キャンプ場は金を取られるのでめったに使わず、もっぱら道路脇にテントを張っているそうだ。まあ、
「アルゼンチンは物価が高いからそうはいかないだろうけど」
とは言っていたが。
 しかし世の中には強い女性がいるものだ。小柄な細い体の何処にあのパワーがあるのだろう。私は自転車の旅など一度として考えたことも無い、いや、中学の時、3日で200キロ強の自転車の旅をしたことがあるがそれ以来、無い。バイクという楽なものを知ってしまい、それに第一とても体力が持ちそうに無いからだ。
 それにしても日本人の自転車野郎は元気だ。アラスカから下りて来た自転車野郎は彼女で3人目だが、バイクは一人だけ。彼らの話だともう2〜3人南米のどっかを走っている自転車野郎がいるという。日本人バイクライダーよ、自転車に負けるな!
 彼らとは2時間ほど話して別れたが、このダートを何日で越えたのだろう。バイクの私は一日半で越えられたが、ウシュアイアで会った世界一周の待井クンは11日、エル・カラファテで会ったBMXの大坂の青年は雨、風が厳しく2週間もかかったという。当然その間全て自炊、テントだ。やはり私には彼らのパワーはもはや、無い。
 幸運にも私の時は快晴が続き、風も強くなく、その日の午後ダートを抜け、小さな街プエルトモレノに出た。

  

人影のないダートを走る。何度か雨に降られた。

 パタゴニアで会った自転車、バイクライダーは皆ここから舗装路で国境を抜け、2〜3時間の短距離フェリーに乗り、長距離フェリーの港、プエルト・チャカホコへと出るルートを取っていたのだが、私はここから真っ直ぐダートを北上し、国境を越えてそこへ出るルートを走ることにした。
 ところが、これが大変なルートだった。ちゃんと地図に載っている道なのだがだんだん道が狭くなり、ダートもひどくなっていった。それでも小さな川をいくつか渡り(橋ではなく川の中にバイクを乗り入れて)進んで行くとようやくアルゼンチンの国旗の立っている建物が見えてきて、『やった!イミグレのオフィスだ、道は間違っていなかった』と胸をなで下ろした。バイクを止め、ホッと安心してパスポートを持って建物の中に入ってみたらそこは何と軍の駐屯地だったのだ。
 出て来た兵士に聞くと、
「道はこの先もう無い。ただし、農場を通って20キロほど行くと国境に通ずる道に出る」
と言う。とりあえず地図を広げて兵士に聞くと地名は間違ってないようだ。車の通れない道を書くんじゃねえ、まったくいいかげんな地図だ、と怒りながらも行くしかない。
 本当に農場通っていいのか、と何度も兵士に聞いて農場のゲートを開け、中に入って行く。いいとは言っているが何せ相手はいい加減なアルゼンチン人、ドロボウと間違われ、猟銃で撃たれでもしたらたまらない。ま、農場と言っても何処に家があるのか分からない程広く、人と出合う確率はかなり低いのだが・・・。

道がだんだん消えてゆく。牧場の中を走る。

 そんなことを考えているうち道は更に狭くなり、3つ目のゲートを越えたらほとんど獣道のようになった。そして、不安で頭の中がぐらぐら揺れながらも4つ目のゲートを越えて少し走ったら本当に道に出た! 
  ホッとしてその道を暫く走ると農場があり、そこで道を聞いて国境に出た。手続きは簡単。係官はヒマそうで、世界一周をしている、と言ったらいろいろ質問をされた。人間もバイクも珍しいらしい。チリとアルゼンチン人以外の外国人はめったに来ない、と言うことで納得した。のどかな田舎だ。

プエルトアイセンへの道は雄大な景色が続く。

 アルゼンチンからチリに入国してプエルト・アイセンまでの約65キロは狭い舗装のワインテングロードだが、道沿いに川が流れ、両脇は山。まるで信州あたりを走っている気分にさせてくれる。全くの日本の風景そのままがずっと続き気持ちいい。その上キャンプ場がいくつもあり、一日位キャンプでもしたかったが、フェリーの時間が気になり先へと急いだ。 この日、フェリー乗り場16キロ手前のプエルト・アイセンに暗くなってから着いた。自転車のカップルと別れて380キロ走ったことになった。

 プエルト・アイセンに着いた翌日朝、16キロ離れた港、チャカホコへ行く。ところが昨日泊まった街で調べて、この日出航予定だったフェリーが出ない、と言う。この時(3月中旬)すでにシーズンオフでスケジュールが変わり、乗りたかったチロエ島南端へのフェリーは来週だ、と言うのだ。
 チリ本土( この街も南米大陸の一部だが、道がフィヨルドに阻まれ通じていない為、離島のような言い方をする )へのルートはいくつかあるが、全てシーズン中の3分の1ほどしか便が無く、いずれも6日以上先になるという。
 そんなに何日もここに居れないし、どうしよう、と思っていたら他社のフェリーがある、というので当たると今日プエルト・モン(チリ南部最大の街)行きが来る予定、という。しょうがない。予定していたチロエ島縦断は諦めて乗ることにした。
 その夜、フェリーは4時間遅れて出港した。甲板へ出て見送る人も無い港を眺める。これでパタゴニアともお別れだ。突風にも吹っ飛ばされることもなく、コケることもなく無事抜けることができた。ようやく南米の第一関門突破ということか。大変だったが面白かった。名残り惜しい気もする・・・。
 やがて、港の明かりは闇の中に消えていった。

 

最後のフェリーに乗る。船内の食堂では分厚いサーモンと五目ご飯?旨かった!

 翌日夜、4時間遅れてプエルト・モンに着いた。が、港の沖で入港待ちが2時間もあり、結局夜遅くなって上陸した。


チリ本土上陸

 外へ出ると街灯がいくつかあるだけで回りは真っ暗。その暗闇を見てひとつ不安が浮かんできた。南米に入ってからヘッドライトがだんだん暗くなってきて、最近ではポジションランプくらいの明るさしかなくなっていたのだ。
 しかたなくゆっくり真っ暗な闇の中へ走り出した。後ろから車が来るとまだいいが、それが追い越して行くと何も見えなくなる。それでも5分ほど走ると街の明かりが見えてきた。
 街へ入るとプンタアレーナス以来の大きい街で、一瞬やばいと思ったがその割にはホテル探しがすんなりゆき、苦労もせずにいい宿が見つかって10時すぎにチェックインすることが出来た。
 部屋で一息入れ、外へ出てみる。パタゴニアを抜けたとはいうものの夜はまだまだ寒く、パタゴニアで使っていたジャケットを着て街を歩く。
 街は観光地で、みやげ物屋やレストラン、ホテルも多い。しかもこんなに遅くまでけっこう営業しているのに驚いた。日本だったらあたりまえだが、アルゼンチンでは考えられないことだ。やはり南米の日本人、と言われる働き者のチリ人、というのは本当のようだ。

    

メルカドの店。右は何とカエルの干物。

 翌日、海の幸の豊富なことで有名なこの街の港のメルカド(市場)へと出かけてみる。昨日のフェリー乗り場のちょっと先にそれはあった。中に入ると活気があって食料も種類が多く、豊だ。
 多くの国を回ってきて思うに、市場に活気があり、食料が豊かで街中にメシ屋のある国は伸びている。かつての日本もそうだったし、東南アジア諸国しかり、この国もまた同じものを感じさせてくれる。
 事実、経済をやっている人に言わせるとチリは“南米の台湾”だそうである。ちなみに、経済がガタガタのブラジルは“南米のイタリア”なのだそうだ。※注(これはこの当時のことで、今やブラジル・アルゼンチンはそのままだが日本がかつてのイタリア、と言われている)
 アルゼンチンは、自国の資源を過信して童話のキリギリスみたいに遊んでばかりいて、知らない間に没落していた、ということで“南米のオーストラリア”とでも言っとこうか(これは私の説)。
 さて、メルカド。ここには小さなレストランがいっぱいあり、客引きで賑やかだ。ひやかして回っていたら何と店先に正油と粉ワサビを置いてある店を見つけた。
 これは見逃すわけにはいくまい。さっそく入ってウニとピコロコという拳2つ分はある巨大フジツボを注文する。もちろん生で正油、ワサビ付だ。ウニは日本のそれとちょっと違うが、豪快にどんぶり一杯運ばれて来た。うまい!ピコロコはトウフのように柔らかな白い身で、味は上等なカニ肉のようだ。これまた、旨い!
 こうやって日本から遥か離れて、思わぬ所でこういう日本的すぎる食い物にありつき、回りは全く日本的ではない所でひとりそれをかみしめながら食うと自分はつくづく日本人だなあ、何処まで行っても日本人だなあ、と思う。特に、肉しかないアルゼンチンを抜けてきたばかりなのでよけいそう感じるのかもしれないが、ちょっとだけ妙にセンチな気分になってしまった。

    

プエルトモンのメルカドでは若い女の子も働いていた。中は雨宿りする犬 

 2日後、朝から暖かく、久しぶりにセーターと防寒用のアンダーウェアを脱いでサンチアゴへ向け出発した。
 プエルト・モンを出ると遠くにチリ富士と呼ばれるオソルノ山(もちろん日本人に、だ。チリ人から見れば富士が“日本オソルノ”だろう)が見えてきた。この山を近くで見る為に80キロ程遠回りをして行く。
 30キロ程行くとプエルトバラスというドイツ移民が造った、まるでドイツのリゾートを走っている気分にさせてくれる程建物・街並みがドイツしている街に入った。そこをを抜け、暫く走るとオソルノ山が再び見えてきた。
 あいにく、山頂に雲がかかり、しかも逆光で霞んでいたのだが、確かによく似ている。山の前には大きな湖があり、その湖畔の道を走りながら見える景色は、正に伊豆あたりから見るそれと同じであった。
 ダートに入り山の裏へ回り、北上してメインルートに出た。さすがに裏から見るオソルノ山は富士山とは少し違っていたのだが、裾野の森の中を走るダートは、やはり日本の山道を走っているようだった。

チリ富士“オソルノ山”。どう、似てる?

 次の日、ようやく、約一カ月ぶりに夏服に戻した。やはり寒いより暑い方がいい。そう思いながら気分壮快で飛ばしていたら午後からは暑いくらいになった。
 あたりは森も林もなく、低い植物がまばらに生えているだけの乾燥したサバンナ地帯になった。遠くには延々と続くアンデス山脈が見えるがパンアメリカンハイウェイ沿いはずっと平坦な大地が続く。その大地のところどころには小さな町があり、耕作地も広がっていた。そんなところを休憩も取らず、ただひたすら走る。
 そのうち畑が途切れなく続くようになってきて600キロも走った頃、日が傾き始め、アンバーに変わった遠くの空に低い雲が広範囲に漂っているのが見えてきた。
 後でわかったことだが、雲と思ったのはスモッグで、盆地の街、サンチアゴから吐き出された排気ガスが漂っていたのだった。
 そのサンチアゴに入る。ブエノスアイレス以来の大都会だ。市内に入ると交通量が多いうえに立体交差も多くちょっと戸惑った。ほんの20分ほど前までは車とはほとんど出会わなかったのだ。そうこうしているうち道路と地上に出た地下鉄が並行して走っている道に迷い込み、以前少しだけ住んでいたパリ郊外から市内に入る道路とあまりに似ていたので不思議な気分になった。
 簡単な市内地図しか無いし、道案内も無いので不安だったが、何となく高速を降りて少し走ったら市の中心部に出ていた。時々自分でも感心するが、これが長いこと旅を続けてきたカンなのだろう。
 スペイン人の作った街は何処もだいたい同じ作りになっていて、セントロと呼ばれる中心部の、そのまた中心部に広場があり(国によって呼び方は違うが、チリ・ペルーではアルマス広場と呼ばれている)そのあたりにホテルが多い。
 セントロにはすんなり出たものの、一方通行が多く、バイクを止められる安宿がなかなか見つからない。セントロの周りを何度も回り、ようやくテレビ・クーラー・バスタブ付きツインルームという、私にとってはちょっと高級なホテルを3ドル値切り、2500円程で話を付け荷物を解いた。

    

サンチアゴのアルマス広場。右はサンチアゴを見下ろす展望台。

 さっそく荷物を解き、街を歩く。アルマス広場には大道芸人が何組か店を開いていて、人垣が出来ている。広場に面した通りにはヨーロッパのように椅子とテーブルを外に出したカフェが並び、その周りには似顔絵描きが何人もイーゼルを立てていた。
 こんなに人が大勢居る風景もブエノスアイレス以来だ。ただし、アルゼンチンと違って店が遅くまで開いている。やっぱりチリ人は働き者だ、とみょうに感心する。
 ピザハットやケンタッキーといった日本にもあるファーストフードの店や、小さなホットドッグ屋も多く、安い。やはり安いメシ屋が多い国は経済にも活気があり、伸びる要素が多いのだと思う。
 街は夜遅くまで賑わっていた。歩いていたら、安そうな中華の店を何軒か見つけ、その一つに入ってみた。経営者らしきオバサンとその娘が広東語を話していたので、香港あたりからの移民なのだろうか。セットメニュー三品で約500円、こちらの物価にしたらちょっと高めなのだろうか、味はなかなかのもので、ここにいる一週間の間、夜はほとんどこのあたりの中華で食うことになった。
 食い物と言えば、昼はよく近くのメルカドに行ってスパ・デ・マリスコスというメニューを食った。プエルト・モンでもよく食っていたが、直訳すると海の幸のスープ。魚・貝・エビ・イカそれに前に書いたピコロコも入ったゴッタ煮がドンブリのような器で出て来て、それにレモンとチリペーストを入れて食う。

    

これがピコロコ。右はソパ・デ・マリスコス。うんまいぞー!

 これがまた旨い。日本にあったら絶対行列ができる。1500円でもオーケーだ。しかもそれがここでは、日本円にして300円ほどしかしないのだ。このメルカドは広く、体育館のような高いドームの天井の下に小さな店がいっぱい並んでいる。
 入り口付近にはシーフードレストランが軒を連ね、そこを抜けると海産物の店、野菜、フルーツの店、観光客向けのみやげ物屋もある。商品の種類も多く、見ているだけであきない。
 冷やかして歩いているとよく店のオヤジが商品を分けて食わしてくれた。チリの人は日本人に対して割と親近感を持っているようで、アルゼンチンと比べたらずっと親切だ。あるいは私の顔が地元に溶け込んできたのか、まあいずれにせよ嬉しいことだ。

     

サンチアゴのメルカドと遊んでいたガキ。

 この街ではやることがいくつかあった。まずはバイクの修理。パタゴニアに入る頃からシリンダーヘッドから漏れ出したオイルが気になっていたのと、ヘッドライトが暗くなってきたのを元に戻さないといけない。この先、まともに修理できそうな所がないのだ。
 翌朝、ホテルで教えてもらったホンダの店へ行ってみる。ラッキーなことに英語が少しわかるメカニックが居り、さっそくバラしてみると、思った通りシリンダー取り付けボルトが2本抜けていてヘリコイルを入れることになった。多分振動による金属疲労でねじ山がもげたのだろう。
 この店はホンダのチリ輸入総代理店になっているそうで、部品は隣りのオフィスですぐに手に入った。ちなみに、ここの社長がチリで唯一のNSXを持っているそうだ。
 この日はこれで時間切れ。地下鉄で帰ることになった。ここからホテルのある街の中心部まで4駅。バイクで旅をしていると電車なんてめったに乗らないもので、思い返したらずいぶん前、ヨーロッパを旅していた時、パリで乗った地下鉄以来だ。地下鉄は割と新しいからか駅も車内も綺麗で、日本とそう変わらない。ニューヨークの地下鉄よりよっぽど綺麗なくらいだ。
 この日も駅から地上に出て、いつものようにアルマス広場の回りを夜遅くまでうろついた。

 

   

これもメルカドの店。

 翌日ヘリコイルが入り、組む段になってついでにカムベアリングも交換することになった。ところが部品が無い。どうしたものか、と思っていたらメカが、『ベアリング屋にあるかも知れない』と言うので近くのベアリング屋へ行ってみる。
 ここあたりはほとんどが車の部品屋で、チリで走っている車のあらゆる部品が手に入るらしい。部品屋といっても売る商品を限定した雑貨屋くらいの小さな店がずらっと並んでいて、特定のメーカーのものなら何でもある、という店は少なく、逆にいろんなメーカーの電装品だけ、とか足回りだけ、とかいう店が多い。 日本のメーカー以外ではフランス車が強いようでプジョー、ルノーの看板が多い。特にトラックはルノーが強いようで日本製トラックの倍以上のシェアがあるようだ。
 ベアリングはそんなに期待していなかったのだが、いくつかあるベアリング屋の最初に入った店のオヤジにベアリングを見せたらサイズを計り、奥へ入ってすぐ同じものを持って来てくれた。しかもよく見たら純正と同じ日本のメーカー製のメイドインジャパンだった!その上不思議なことに、輸送費もかかっているはずなのに日本で買うより安い値段だったのだ!どうして??
 ともかく夕方までかかり自分で組上げ、エンジンは生き返った。ヘッドライトの方はジェネレーターを交換するしか無い、という結論になったが、ここにはさすがに同じ部品が無かった。そうしたらまたメカニックが『コイルを巻き直してくれる所がある』、というので教えられた店に翌日行ってみることにした。
 店はヤマハの看板を出している大きな店で、ジェネレーターのことを言うとすぐ交換に取りかかってくれた。そして、見事に半日でコイルを全部巻き直してくれたのだ。原因は、長年の高速走行の熱でコイルのニクロムが剥げ、ショートして電圧が下がった為のようだ。
 日本では、今時こういう修理はしてくれない。いや、もう出来る人がいないだろう。いたとしても交換した方がずっと安上がりのはずだ。日本では消え去ろうとしている技術がここではまだ生きている。この国は部品入手、メカの腕、どちらも南米一かも知れない。

  

チリの白バイ( BMW )と軍隊のパトバイク( ホンダ125 )

天国?ビーニャ・デル・マル

 1週間後、110キロ離れた海辺の街、ビーニャ・デル・マルへ移った。アルゼンチンで遭ったツーリストに聞いていた日本人宿、汐見荘へ行ってみようと思ったからだ。
 一時間半程で着いたこの街は、サンチアゴ市民のリゾートになっているそうで、大きなカジノがあり、海岸線には高級リゾートマンションがズラッと並んでいる。汐見荘は、町の中心部から山手の方に数キロ行った住宅街にあった。宿といっても看板も何も出ておらず、探し出すのが一苦労。ようやく見つけたそこは全く普通の民家だった。
そこで久しぶりに日本人旅行者と話をした。ここには一カ月以上居る人が数人。”住んで”いる人が一人、皆タダモノではなさそうだ( 向こうもそう思っていたらしいが )。
 ここは共同キッチンでドミトリー。メシは何人か共同で金を出し合って作っていた。この日はお情けで分けてもらって食ったが、翌日から買い出しをしてきて私が作った。
 この街の市場では野菜、魚介類等ほとんどの食品が手に入る。イカやタコ、タラコのような魚卵も売ってある。久しぶりに食い物への期待が膨らんだ。
 旅先で日本食を作ったのは、よく考えたら、何と最初の旅、オーストラリア以来だ。いろんな条件が重ならないとこういうことにはならないが、それはたとえばキッチンのある宿であること、材料が手に入ること、日本人が何人か居ること、等の条件が必要だが、全部揃ってしまった。唯一、調味料がアメリカ製のキッコーマンと台湾製の醤油しか手に入らなかったが、まあ何とかなるものだ。
 作ったメニューは、親子丼、お好み焼き、チャーハン、その他、評判が良かったのはお好み焼き。ただし、ソースが手に入らず、マギーのちょっとウスターソースに似ているソースを買ってきて色んな物を混ぜて作った。これに是非とも必要な鰹節は旅行者が置いていったのが少しあり、少しづつ大事に使った。

ビーニャ・デル・マルの夕日。このずーっと先は日本だ!